はじめに

  毎年暑い夏が来ると、広島の原爆、戦争の続いた日々、原爆で亡くなられた多くの学友、母や姉達のことなどが想いだされます。

  父の転勤に伴われて昭和19年3月に東京から広島に引越した私は、翌年の昭和20年8月6日に広島で原爆に遭い、危うく命を落とすところでした。旧制広島市立中学(1)2年生の時のことです。 

  原爆投下当日、中学生(1)や女学生(2)一般市民が動員されて市中心部の家屋強制疎開作業(3)に従事しておりましたが、その作業場のほぼ真上(4)で原爆が炸裂し、しかも、何等の遮る物もない屋外での作業でしたから非常に多くの犠牲者を出すことになりました。

  私は、ほんの偶然からこの作業に参加しなかったので危うく死を免れましたが、多くの学友達は、ここで、その余りにも短い命を失いました。

  8月6日の広島原爆被爆記念日を迎える度に、亡くなられた学友達のことを思うと、感無量のものがあります。

  これらの多くの学友達が何故死ぬことになったのか、なぜアメリカは広島や長崎に原爆を投下したのか、その正当性は、また、亡くなられた人達の人生は何だったのか、この大戦争は一体何だったのか等々の疑問は、私に突きつけられた大きな命題であり、未だに明確な解答が得られておりませんが、その死を無駄にしないために、実際に見聞きしたことを記録として残し、語り伝え、二度と原爆を使わせないように働きかけることが、少なくとも生き残った私たちの義務であると思います。 

  平成8年8月6日、50回目の原爆記念日を迎えるにあたり、旧制広島市立中学校原爆死没者慰霊祭実行委員会の手で、生き残った同期生達の手記を集めた文集、「被爆五十年を生きて」が発行されました。この文集に私が寄稿したものに加筆して、中学生時代からの私の思い出を中心に、私達一家の原爆体験記録と、亡くなられた多くの方々への追悼文としてまとめました。

  原爆の悲惨さを本当に体験した被爆者が次第に少なくなってきて、広島・二十万人、長崎・十万人の市民を殺戮(さつりく)した残酷な非人道的原爆の記憶が次第に忘れさられ、風化しつつある一方、未だに唯一の被爆国である日本から、原爆使用の歴史的評価がなされておらす゛、

  1. 原爆投下が第二次大戦を早期に終結させ、日本本土決戦による日米双方のおびただしい死傷者がでることを防げた。もしあのまま戦争を継続して、日本本土決戦になったら、日本人の犠牲者は広島・長崎の犠牲者の十倍以上になったであろう。
  2. 「リメンバ−・パ−ルハ−バ」、広島への原爆投下は真珠湾奇襲攻撃への報復であり、当然。
  3. 朝鮮戦争では原爆を使用しなかったために戦争が長期化して、米国は多大の犠牲を出すことになった。

などと、原子爆弾の使用を正当化する世論がアメリカを始めとする世界で支配的であり、広島・長崎での原爆使用を正しく評価しようとして、スミソニアン博物館が1995年に計画した原爆展が、アメリカ在郷軍人会を中心とした強い反対に逢って開催を中止せざるを得なくなったことも、記憶に新しいところですが、秘密のベ−ルに包まれていた色々な情報が公開されるにつれて明らかになってくる歴史的事実に基づいて、何故アメリカが広島に原爆を投下したのか、果たしてその必要があったのか、二日おいた直後に長崎にも原爆を投下する必要があったのか、また、軍事施設を対象としたものでなく、一般市民を対象とした都市への無差別大量殺戮(さつりく)の正当性などについて正しく評価し直して、その成果を広く世界に訴えるとともに、大きな犠牲を払って得られた歴史的教訓を生かすように努めることが唯一の原爆被爆国である日本の義務であると思います。それを行わない限り、また再び原爆でことを解決しようとする力の論理がまかり通ることとなるのにもかかわらず、未だにそれが為されていません。また、インド、パキスタンなどが新たに核実験を行っており、逐次、原爆保有国が増えていく現状を憂います。

  現在世界中に、世界中の人が何十回も殺されるだけの核兵器が蓄積されていて、今度核兵器が使われるようなことがあつたら、全世界が「広島」になると言われています。 

  この手記をお読みになって、改めて原爆の恐ろしさを感じていただくと共に、三度このようなことが起こらないようにするために、次の世界を築いていく若い方々やお子さん方にも読ませていただいて、皆様で原爆について考えるきっかけとして下されば幸いです。

  この手記に書かれたことは、決して古い昔のお話ではなく、極めて今日的な話題なのです。


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