1. 原爆投下以前 広島市立中学の生活 

  「どさっ、どさっ」と、モッコ(5)に放り込まれた砂利の重みが、ろくに物を食べさせてもらえないで、年中腹を空かせている中学生の肩に、きつい作業が続いたのは、戦争末期の昭和19年のことでした。広島郊外の可部村の水害復興に駆り出された時のことで、太田川が氾濫して、たんぼの上に堆積した土砂を取り除く作業に、村のお寺に2週間程の間泊まり込んで従事しました。

  物心ついた頃には中国との間で、もう始まっていた戦争は、小学生の頃に米・英との大戦争になり、広島で中学生になった時には無敵の筈の我が皇軍の旗色は悪くなる一方になっていて、昭和19年7月サイパン(6)陥落、昭和20年3月硫黄島玉砕(7)(8)5月ドイツ降伏、6月沖縄戦終了(9)、と戦争は最終段階に入り本土決戦が叫ばれる頃になると、国内の労働力不足を補うために、中学生までが色々な作業に動員されることになっていました。私達も、学校の授業よりもこのような災害復旧作業や、稲刈り、飛行機のエンジンを造る工場の雑用、浄水場で緩速濾過槽の砂利交換作業等に、駆り出されることが多くなっていたのです。

  今から考えれば中学生など子供ですが、その頃の中学生は立派な労働力で、3年生以上の上級生は、学校での授業は無くなっており、毎日工場に通って仕事をする学徒勤労動員、いわゆる、通年動員されていましたから、学校には1年生と2年生しか残っていませんでした。(10)そればかりでなく、中学生は戦力の一部と見なされていて、沖縄戦では、軍と行動を共にした中学生も軍と運命を共にして玉砕(ぎょくさい) (8)したと聞かされ、近く行われる本土決戦に当たっては、学校単位で軍に編入されて、軍の一部として戦闘に参加すると言われており、本気でそのつもりになっておりました。

  調べてみますと、国民義勇軍法が(10)昭和20年6月に施行されており、国民学校初等科(12)以上の男子65歳、女子45歳以下の国民は全員義勇隊員として軍の要請によつて強制的に軍に動員されることが、法的にも決められていたのです。沖縄戦では、中学生や女学生が軍と共に戦い、其の多くが戦死した事実はよく知られています。

  このように、今にも敵が本土に上陸して、日本本土で最後の決戦が行われようとし、鬼畜米英撃滅が叫ばれている軍国主義一色の世の中で、英語は敵性語であるとして禁止されるような時代でしたが、広島市立中学には、時流に流されることのない、すばらしい先生方がおられたことを思い出します。

  そんなある日のこと、音楽の先生が、昔アメリカに行かれた時の思い出話をされたことがあります。

  「アメリカへ渡る船の中で、食堂か何かでくつろいで居るとき、急に何かの音楽の演奏が始まると、あたりの人達が一斉に立ち上がって直立して姿勢を正した。 訳が解らないまま、あたりの人の真似をして立ち上がった。後で聞くと、演奏されたのはアメリカ国歌だったとのことで、それを知らなかったためにもう少しで恥をかくところだつた。それぞれの国に国歌と国旗があり、それに敬意を払うのが国際的な礼儀である。このような時に礼を失したりすることがないように、各国の国歌、国旗を覚えておくことが必要である。」と、言われてアメリカ、イギリス、フランス等の国歌のレコ−ドを聞かせて下さいました。東条総理大臣が、靖国神社で行われた式典で、敷物代わりに敷いた星条旗を土足で踏んで演台に上がって演説をしたこともあるあの時代から考えると、良くそのような勇気をお持ちだったと思います。

  敵性言語だとして、英語の使用が制限されていた時代でありながら、英語で英語を教える授業を心がけておられ、教室で英語をペラペラしゃべっておられたのが植木先生です。何かを生徒に質問しては、

"Any one ?"、  "Every Body."、 "Any Question?"

などと言いながら、クラス中を見回しておられた先生のトンボの眼鏡が思い出されます。

  また、植木先生には楽しい歌を唱っていただいた思い出があります。可部村の水害復興作業は、モッコ担ぎの重労働でしたが、家を離れて友達と一緒に泊まる楽しさもあり、夕食後の一時、宿舎のお寺の本堂で演芸会をやったりして、修学旅行にでも行ったようにはしゃぎました。その時、植木先生が唱われた歌はこんな風でした。

お菓子の好きな 巴里娘
二人揃えば いそいそと
角の菓子屋へ  ボンジュール

  軍国主義一辺倒の堅苦しい世の中で、おいしいごちそうには縁がなく、お腹を空かせてばかりいた中学生にとって、「パリ娘」、「お菓子」、「ボンジュ−ル」、などの言葉を散りばめた洒落た歌が、どんなに感動的だったか、70歳近くなった今でも覚えていることでも解ります。

  可部村での作業に行った生徒の4人に3人のクラスメ−トは、人生の楽しさも知らずに、原爆であまりにも短い命を失うことになり、本当にかわいそうなことになりましたが、この時、わずかながらも楽しい別の世界を垣間見せていただいたことが、せめてもの救いだったと思います。

  1998年8月に出張先のマニラのホテルでこの原稿を書いていたら,同行の和田さんがこの原稿を見て、この歌のCDと歌詞を持っているとのことで、帰国後、歌詞を送って下さいました。


         お菓子と娘

                  西条 八十 作詩
                  橋本 國彦 作曲

お菓子の好きな 巴里娘
二人揃えば いそいそと
角の菓子屋へ  ボンジュール

選ぶ間もおそし エクレ−ル
腰も掛けずに むしゃむしゃと
食べて口ふく 巴里娘

残るなかばは 手に持って
行くは並木か 公園に
空には五月の みずあさぎ

人が見ようと 笑おうと
小唄まじりで かじり行く
ラマルチ−ヌの 銅像の
肩で燕の宙がえり



  戦争が激しくなるにつれて、不足する労働力を補充するため、中学生も高学年になると学校に通っての授業は無くなり、学校単位で軍需工場などへ通って作業だけをする、いわゆる通年動員(10)されてしまいましたから、学校には1年生と2年生しか残っておりませんでした。その、1・2年生も、春の田植え、秋の刈り入れ、水害復旧作業などの臨時の作業に動員されることが多くなって、空襲警報(13)が発令されると学校は休みになりましたので、授業の無くなることが多く、授業時間が不足していましたし、何時また作業に動員されるか解らないため、勉強の出来る時には勉強しておかなければならないとのことで、その当時の学校には夏休みなどはありませんでした。

  昭和20年7月になって、急に、我々の学年の中から1クラスだけが通年動員されることになり、動員のため臨時のクラス替えが行われ、1学年4組の中で私は新たに編成された通年動員組の第1組に入れられました。このクラス替えが私達のその後の運命と生死を分けることになったのです。

  海軍呉工廠造船実験部に配属になった我々動員組は、8月1日に広島市内の同工廠広島分室で入所式があった後、8月5日の日曜日までの間特別休暇を貰い、作業の開始は8月6日の月曜日からになりました。作業の段取りもあったのでしょうが、学生としての最後の数日を夏休みにしてくれた親心だったのでしょう。動員にならなかった他のクラスが市内の家屋強制疎開作業に動員されて猛暑の中で作業をしている時ですが、8月2日から5日までの間、家の近くの太田川で泳いだり、小魚や小海老をすくって遊んでいました。

組替えで 幽明隔て あい別れ 


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