2.原爆投下当日 1945年8月6日

8月6日の月曜日が通年動員の初出勤の日で、当日は、工廠の重要書類を芸備線下深川駅近くにある銅鉱山の廃坑に移設する作業に従事することになっていました。

8月6日朝、白島の家を出て集合場所の広島駅に向ったのが7時過ぎ。駅近くの踏切を渡っている時に、朝方から一時出ていた警戒警報(14)が解除になったことを覚えています。 原爆の記録文などによると、原爆搭載機に先行して広島上空に飛来した気象観測機が、後続するB29(15)原爆搭載機「エノラゲイ」に対して、広島は快晴で原爆投下に適した気象条件である旨を打電して退去し、警戒警報が解除された時刻は7時36分となっていますから、駅前の踏切を通ったのが原爆投下40分前だったことになります。駅前広場にクラスの友達一同が集合して、朝礼・東方遥拝(16)などを行った後、藝備線の汽車に乗って、目的地の下深川に向いました。 

矢賀駅を出た所にあるトンネルを、汽車がちょうど通っている時に、背中を強くドンと叩かれた様に感じました。その時通路に立っていた私の頭に瞬間浮かんだのは、「通路のドアが急に閉まって背中に当たったのかな。」と、「汽車のドアは横開きだから、そんな事はない。不思議だな。」との、二つの思いが同時に頭に浮かんだことを思い出します。

トンネルを抜けると、今通ってきたトンネルの山の上に、ムクムクと立ち上がる黒雲が見え、そのうちにパラシュートが二つ落下して行くのが見えてきたので、

「B29(15)がこの山の上に撃墜された。」

「搭乗員がパラシュートで逃げている。」

などと、皆で騒ぎ始めました。 汽車の最後部に乗っていた人の話によると、その時、落雷の時のような青い光を見たとのことでした。これが、人類初の原爆を使用した攻撃であり、二十万人もの死者を出すことになった惨劇の開幕だったのです。

鉄道博物館の図書室で、当時の時刻表を調べて見ると(昭和20年6月10日改正)当日の芸備線の列車の広島駅発が7時45分、目的地の下深川8時15分着となっていて、原爆爆発時刻が8時16分だった事実とは時間が合いません。何等かの事情で広島駅発の時間が遅れたものと思われますが、広島駅からトンネルまでの所要時間から見ると、汽車が広島駅を出たのは、原爆が投下された8時16分の10分前の8時6分頃だった思われます。広島駅の被害の大きさを見ても、もしも私達が8時16分に、まだ広島駅にいたとすると、死んでしまった事は確実です。原爆投下10分前に広島駅を列車が発車したことで、かろうじて私は命を取りとめたのです。 

このような訳で、同学年4クラスのなかで、私達1組だけ命が助かることになりましたが、他の組の人達殆どが、原爆の直撃を受けて亡くなられました。詳しくは次の通りです。

2組と4組は原爆炸裂場所直下の小網町の家屋強制疎開作業に動員されていて、ほぼ全員死亡。朝8時に集合し、朝礼中だったようです。3組は当日が登校日で、ちょうどその時刻に、校庭で朝礼の最中だった為に、ほぼ全員死亡。下の学年の学友達は小網町の建物作業に動員されていて、これもほぼ全員死亡しました。昭和50年に被災地近くの天満川河岸に建てられた旧制広島市立中学校原爆死没者慰霊碑には「原爆三百六十九霊塔」と刻まれております。

人生の素晴らしいことも知らず、戦争に勝つことだけを望みながら死んでしまった友の人数ほうが遙かに多く、今の私のこの命が、ほんの、ちょっとした偶然によるものだと思うと、感無量です。

下深川に着いて、疎開荷物を積んだトラックが広島から来るのを待っていましたが、昼になっても到着しません。一方、広島の方向から立ち上る黒雲は、ますます勢いよく中天高く立ち上っていました。昼過ぎ頃だったでしょうか、馬に乗った兵隊が一人、広島方面から駆けて来て、我々に道を尋ねました。見ると全身黒く汚れて、血が付いていて、興奮した様子で、立ち上がる黒雲を指さし、

「広島に大空襲があり、広島が全滅した。」と、驚くべきことを言いおいて北方へ走り去りました。 

「たった今まで我々は広島にいたのに・・…。」

「警戒警報(13) は今朝、解除されたばかりで、空襲警報(13)も出ていないのに・・…。」

「大空襲なら、B29の大編隊が来ていた筈なのに・・…。」

「そんな馬鹿な・・・…。」、

などと言っていた我々も、昼過ぎになって広島方面から、窓ガラスが全部割れたボロボロの汽車が負傷者を満載して通過し、そこから、血のついたボロをまとい、火傷やけがをした人達が降りて来た時には、全員、青くなって、

「幟町方面はどうですか?」、「横川は?」、「中広町は?」

などと口々に言いながら、それらの人達をどっと取り囲みました。

「白島は?」と、

私も聞いてみましたが、白島も駄目とのこと。信じ難いことですが、広島全滅は本当のようです。

運行中止になっていた広島行きの一番列車に乗ったのは、夕方の6時頃、車窓から見ると市内から郊外に向かって歩く負傷者の列が延々と続いていました。広島駅までは汽車が入れず、一つ手前の矢賀の駅から歩きましたが、市内に近づくに従って次第に重傷者が多くなってきました。広島駅の北にある東練兵場あたりまで来ると、そこら中で負傷者が寝る準備を始めており、盛んに煙を上げている市内からは、続々と負傷者の群れが押し寄せていました。最初、全身にボロ切れをぶら下げでいる人が大勢いると思ったのは、良く見ると、衣服を身に着けていない裸で、全身が火傷で赤剥けになって、黒焦げになった皮膚がボロ切れのように、あちらこちらに、ぶら下がっていたのです。お化けがよく2本の手を胸の前に出して指をダラリと下げていますが、ちょうどあれと同じ格好の人が沢山いました。今にして思えば、火傷して痛む手を、心臓より上に挙げて痛みを和らげていたのでしょう。鰯を七輪(17)で真っ黒に焼いた時のようになっている人もたくさん居ました。まともな格好をしているのは我々だけで、当時のこととて、戦闘帽をかぶり、ゲ−トルを巻いてカ−キ色の制服を着た兵隊のような格好をしたのが50人も軍隊式に2列縦隊で行進している我々は、よほど目立ったのでしょう、「救援隊が来たのですか?」、などと、何度かとり囲まれましたが、我々には、なすすべもありません。

「広島が壊滅的な被害を受けたことは確かなので、今日は一旦解散するが、自宅に帰って家族の安否を確認した上で、明朝、学校の焼跡に集合して今後の方針を打合わせることにする。家族をなくした者もあろうが、今後は学校単位で行動を共にするので心配しないように。」

との、先生の話を聞いて解散し、それぞれの家の方向に帰る学友達と次々に分かれて最後に一人、まだ燃えている建物の熱気を避けて駆け抜けたりして我が家の近くまで来た頃には、もう夕闇が迫っておりました。白島町内はまだ火災で通れないので、饒津神社の下を通り、太田川の牛田川側の土手を通って大きく迂回して工兵橋(18)を渡って自宅に近づくと、「もしかすると?」との、期待も空しく自宅一帯はすっかり焼けてしまっており、電信柱だけが炎を上げています。 

もう死んでしまっていると一旦は覚悟していた母や弟達が、家の焼跡の庭で待っていてくれました。母と弟、皆川の伯母様、それと、広島文理大(19)に赴任されることになって、昨夜、東京から家の離れに着いたばかりの親戚の横田美保子さんです。父は転勤になって東京におり、兄は海軍兵学校(20)に入って江田島にいるので良いのですが、市の中心部にある文理大に勤めていた姉がまだ帰っていませんでした。母達は家に火災が迫ってきた時に一旦近くの河原に逃げましたが、かねて、このような場合には、焼跡で待ち合わせることを約束していましたので、火災の収まるのを待って焼跡で私達を待っていてくれたのです。  

家は全焼して、焼跡にはピアノの針金と、親父が集めていたレコードが白い灰の山になっていました。自宅の焼跡を見た時に感じたことは、余計なものがすっかり無くなってしまって、とてもサッパリした気分でした。また、これで、心おきなく軍と行動を共にして本土決戦を迎えられるとの思いもありました。

これに、似ているのは、今回の阪神大震災で被害を受けられた方々が、「すっかり、やられてしまって、サバサバした。物なんか、いらないよ」と同じようなことを言っておられたのは興味あることです。  

姉が死んでしまった可能性があり、母の顔半分は焼けただれて、片目が見えなくなっている大変な状態を見ながら、その時私の頭に浮かんだのは、「姉は駄目だったが、しかたがない。母の火傷は大したことが無くてよかったな。」であり、「昨日、川ですくって来てガラスの水槽に入れておいた魚が死んでしまって、残念。」、と言った他愛もないもので、興奮するとか、悲しむとかの感情がなかったのは、誠にお恥ずかしい話ですが本当です。 

先程から見てきた、あまりにもひどい火傷の人々に較べて母の火傷が軽かったことは事実ですが、余りにも強烈な刺激を受けたことによって神経のフューズが飛んでしまって、感覚が麻痺した一種の異常心理状態にあったのではないかと思います。このことは負傷した人達についても同様で、あれだけの災害に遭い、けがをしながらも騒ぎ立てる人もなく、皆、冷静で秩序ある行動をしていました。

その日の白島の自宅に居た人達の状況は以下の通りです。

母、 米子

一階の座敷の掃除をしていた時に原爆が爆発し、座敷から屋外に吹き飛ばされた時に、顔半分を火傷して顔の半分が腫れ上がって、片目が見えなくなっていました。原爆で生じた火塊からの輻射熱(21)の直射を受けたものと思われます。目、自体には異常がなく、数日後には腫れが引いて、目が見えるようになりました。幸いなことに、吹き飛ばされた先が、離れの家の脇に植えられていた南天の茂みで、これがクッションになったのか、数メ−トル吹き飛ばされたのに、外傷は全くありませんでした。二階の庇(ひさし)から火が出ていたので、二階に上がって、バケツの水で消し止め、非常持ち出しの荷物を庭先の防空壕に放り込んだところで、自宅の出火は消したものの、近所から出た火災が迫ったので、近くの河原へ逃げたそうです。

白島の家は爆心地から1.8q の位置にありましたが、二階の火の気の無い所が原爆の直射で発火したことは、原爆炸裂時の温度が如何に高温だったかを示しています。

夕方になって、火災の治まるのを待って、非常事態での予ての申し合わせ通り焼跡で姉と私の帰りを待っていてくれました。

母の顔のやけども次第に治り、ケロイドにもならず、かさぶたの後も全く残らなかったのは、幸いでした。特に健康には問題がなく、ずっと、元気でしたが、昭和41年、68歳で、卵巣を原発とする癌で亡くなりました。

私は原爆の影響があったのではないかと思っています。

姉、愛子

その頃、姉は原爆投下中心地から南へ1.4q程の広島文理科大学の図書館に勤めに出ていました。原爆投下の時は、書庫の中に居たそうです。火傷はありませんでした。手や身体にガラスが刺さったりするけがをしていましたが、自宅と反対方向の江波に逃げ、父の会社の三菱重工業広島造船所にやっと辿り着いたとのことです。2〜3日の間、会社の臨時救護所に、重傷者や、もう死んでしまった人達の中に混じって転がっていた所を、運よく、姉の顔を知っている会社の方に見つけられて、特別に手当をしていただいたそうです。自転車に乗せてもらって、自宅に連れて来て頂いたのは、被爆後一週間目の頃でした。手にガラスが刺さったりするけががありましたが、大した跡にはならなかったのは幸いでした。その後、健康に特に問題がありませんでしたが、急に健康を害し、昭和57年8月8日、61歳で亡くなりました。

8月6日は広島原爆忌、また、8月9日は長崎の原爆忌にあたりますが長崎は北川家にとっても思い出が多く、父の転勤に伴われて、幼稚園から小学校4年生まで、戦争がまだ激しくない良き時代の5年間を過ごした私の第二の故郷でもあります。姉の母校・活水女学校の友人達の多くが原爆によって亡くなられています。広島と長崎の原爆忌の中日の8月8日に自分も亡くなることになったのは哀れです。

 医者の言う病名が色々変り、よく判らない点がありました。悪性リンパ腺腫瘍だったそうですが、私は原爆が原因だったと思っています。

姉の死は 奇しくも 八月八日朝

姉の死を悼んで泰弘兄が書いた文章がありますので、紹介します。

最愛の姉を亡くして  北川 泰弘  

去る8月8日早朝、姉・愛子は病魔との最後の苦しい格闘に力尽きて酸素吸入のビニ−ル幕の中で息を引取った。難病らしいと思いつつ、特効薬の力で快方に向かいつつあると信じていた私にとって、最後の数時間の急変は恐ろしい打撃だった。毎土曜日に行っていたのに、昨日の見舞いは省略していたのだ。

姉の夫のジム(建築家、日本に帰化した米国人)は妻の最後の闘いを共にした疲れで茫然としている。娘の桂子は母の鼻と口にビニール管が挿入されたままになっているのが、かわいそうだから外してくれ、と泣きながら看護婦さんに頼んでいる。ジムは在日30年、私以上に日本人であるが、この時に使う難しい日本語の単語は知らないので、諸手配は私が代行した。

病名は入院先の防衛医科大でも最後まで確定できなかった。解剖の結果、悪性リンパ腺腫瘍と告げられた。一年半前から扁桃腺が腫れたり、おたふく風邪症状が出て検査を重ねたにも拘わらず原因が判らかった。ただ、ガンではない、と云われて安心していたが、事実はガンより恐ろしい病気だったのだ。医者は本当に病名も死期も判らなかったのか、判っていたのに患者、家族にそれを告げなかったのではないか、せめて家族に告げて呉れれば、看護をもっと手厚くやって上け、親戚、友人に一目会える機会を作って上げられたのに、と悔やまれる。

しかし、或る人は、若し医師がそれを告げた場合の本人の悩み、家族だけが知って本人にそれを隠す家族の悩みを考えると、何も知らなかったほうが幸福だったかもしれないと、慰めてくれた。当人も快方に向かっていると信じ、秋には知人の結婚式の仲人をやるつもりでいたので、或いはそうかもしれない。           

かわいそうだったのは長男の晃で、母の病は心配ないと信じてアメリカの夏季林間学校のリーダーとして渡米中だったので母の死に目に会えなかった。

 葬儀はジムの希望で神式で行なったが、酷暑の中、予想以上に多数の方々が来て下さった。神主さんがちょっと変わった人で、神前で尺八を吹かれた。マイクの用意がしていなかったので、参列者には聞こえなかったが、切々たる尺八の響きは天上の故人の魂に届いたと思われ、予期しない音楽葬となった。

姉が亡くなって、私が兄弟・従兄弟の中で最年長となった。北川家としての親戚付き合いについて、これまでは姉の指示を仰いでいたのが、それが出来なくなった。私の幼児時代については弟共は知らないので、それを知っている人が居なくなったことに気付く。子供時代を共有する兄弟が如何に大切なものかと思う。 

私は姉のピアノ練習の音の嵐の中で育ったので、今でもピアノの音が大好きだ。私が海軍兵学校に入校する直前の昭和18年11月、日比谷公会堂で催された「出陣学徒の為のバッハ、マタイ受難曲演奏会」に連れて行ってくれたのも姉だった。マタイのコラールは海軍の苦しい訓練の中でも私の心の支えとなった。終戦後、英語の力で北川家の家計を支えてくれたたのも姉であった。

姉は昭和20年8月6日広島で原爆に遭い、命をとりとめたが、多数の友人を失った。また、8月9日には母校活水女学校のある長崎に二発目の原爆が落ち、多数の同級生を失った。そして奇しくも、広島・長崎両原爆記念日の中間の8月8日にその生涯を閉じた。

姉は名前のとおり、皆に愛される人であったので、多分天国入りを許され、先に昇天した両親や広島や長崎の友人達に迎えられ、

「愛子さんじゃなかネ!、なつかしかア―」と、

言われていると信ずる。

弟、孝秀  当時、小学校2年生

空襲の危険が多くなっていたので、当時の小学校では、全校生徒が学校に集まって授業をすることは無くなっていて、自宅近くのお寺に分散して授業を受けることになっていました。その日は、風邪気分でその学校をお休みして一階の座敷で寝ているところで被爆。気がついたら、吹き上げられた畳と蒲団に囲まれて泣いていたそうです。ガラスの破片が体に刺さっていたが軽症でした。現在健在

皆川 美智子

東京で焼け出されて、白島の家の敷地内にあった離れに疎開して来られていました。屋敷内別棟の離れの室内で被災し、胸にけがをしておられましたが、その後、特に異常がなくて幸いでした。

横田 美保子

広島文理大学に転勤になり、8月5日の夜、東京から広島に着かれたばかりで、その夜、一緒にささやかな歓迎会をしたばかりでした。家の門を、ちょっと出た所の道路上で被爆したが、ちょうど建物の陰にいたので、けがも火傷もなく、直ちに家にとって返し、そこらに虫干ししてあった父の外套を持って、皆を誘導して河原へ避難した。

夏のさ中に外套を持って逃げるとは、さすが東京の焼け出され経験者。親父のこの外套は、その後の野宿で地面に直接寝る時に役立ちましたし、冬寝る時の毛布代わりにもなり、その後の長い貧乏生活中、親父がずっと着ることになりました。現在、東京で健在。

家の焼跡はまだ燻っていて寝る場所もなく危険なので、近くの太田川の河原で一夜を明かすことになりました。河原から見ると市内は大方燃え尽きたのか、火勢が衰えてきていますが、市の周辺部の火災が夜空を赤くし、あたりは負傷した人がいっぱいでした。 

近くに、ひどい火傷をした女の人が横たわっていて、「水を下さーい、水、下さーい。」と、言っていましたが、誰言うとなく、「水を飲ませると、死んでしまう。」とのことなので、水を飲ませてあげませんでしたが、やがて、その声も途絶えて、明け方には亡くなっておられました。全身火傷をしていたのですから、さぞ、喉が乾いたことでしょう。誰も看取ってくれる人も無しに、苦しんで亡くなられたのですから、本当に、かわいそうです。ひどい大けがや大火傷をした人に水を飲ますと死んでしまうとの説が、当時の広島ではかなり広く信じられいました。何かの機会に知り合った医者に問い合わせて見ましたが、悲しいかな、その説は全く正しくない俗説だったのです。どうせ助からない命なら、最後に一杯の水を飲ませてあげればよかった、無作為の殺人に荷担してしまったのか、とも思い、亡くなられた方々には本当に申し訳ないことをしてしまったと悔やまれ、今もって心が痛みます。 ご冥福をお祈りします。 合掌

原爆の 第一報は 騎馬伝令

廣島が 全滅したと 騎馬伝令

救護隊 来たかと わっと 囲まれて

見渡せば 無傷は 自分唯一人

垂れ下がる ボロと思えば 焼け爛れ

七輪で 焼いた鰯 さながらに

全滅を 覚悟でたどる わが家路

焼跡に 人影母が 弟が

川岸の 草を臥し床に 三日間

水下さい 水下さいの 声が絶え

明け方に 水下さいの 声も消え

飲ませると 死んでしまうと 言われたが

水下さい お水下さいの 声今も 時空を越えて南無廣島


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