4. 焼跡生活 

4.1 被爆直後の生活

 原爆の落ちた次の日に学校へ行っては見たものの、校舎は焼け落ち、先生も殆どおられず、学校自体が壊滅して機能しなくなっていたので、その後は、たまに様子を見に学校の焼跡に行くことはありましたが、9月の初めに広島を引き払うまで、学校にも作業にも行かず、概ね自宅でぶらぶらして過ごしました。 

 さりとて、未だに帰って来ない姉を捜しに、市内に行くこともしなかった行動は、今から考えると不可解で、姉には申し訳ないことでした。あまりにも強烈な刺激を受けると、虚脱状態になってしまって、それ以上の刺激を受けても、何とも感じなくなる、例の非常時の異常心理状態下にあって、ぼんやりしていたのでしょう。しかしながら、結果的にはこれが幸いして、我々は原爆症を免れることになったのです。私の家のあった白島は原爆中心地から北方へ直線距離で僅かに1.8q でしたので、放射線の影響を受ける地域にあたりますが、爆心地に較べれば、残留放射能は多くなかったようです。原爆投下直後に、家にいた母達も、強い放射能を持つと言われる「黒い雨」(23)が降って濡れたと話しておりましたが、原爆投下時の風向きが西向きであったことが幸いして、その量も余り多くなかったそうです。場所によっては、このべとべとした油のようなものを含んだ夕立のように強い雨が、かなり多量に降ったとのことですが、この「黒い雨」が、強い放射能を持っていたのです。

 戦後の残留放射能の測定報告書を見ても、自宅の白島や姉の逃げた広島南方の江波町では放射能が少なかったことを示しております。残留放射性物質が多く残る市の中心地を、原爆投下直後に姉を捜して歩き回っていたら、原爆症になるか、悪くすると命を落としていたことでしょう。現に、原爆投下後に市内に入って肉親を捜し回って原爆症になり、亡くなられた方の話を沢山聞いています。

 焼け落ちた家の跡はまだくすぶっていて、何かと危険でしたので、夜になると工兵隊近くの太田川の河原に帰って野宿をしましたが、火災の収まるのを待って、3日程してから家の焼跡に戻りました。 

 家の廻りにあった板塀のコンクリート製の支柱と、門柱を利用して、トタン板や、焼け残りの板を集めて屋根と囲いにしたホ−ムレスの乞食小屋のようなものを作りました。小屋には焼け残った板きれを敷いて寝ましたので、河原で草の上に寝ていた時に背中が湿った感じだったのに較べると、ずっと快適になりました。

 小屋は当時としては、なかなかの出来で、焼跡の中で目立ち、近所の人が見に来たほどでしたし、暫くぶりに板きれを敷いた床に寝た時には、こんなに良い気持ちのものかと思いました。その後も焼け残りの柱材などを拾い集めては改良を加えて、床板が地面に直接接しないようにする、低いながらも床のある構造にしました。

 また、たまたま胡瓜を売りに来た農家の人から、胡瓜を「かます」ごと買って、「かます」を寝床にした時に、地面に直接寝た時や板一枚の上に寝た時と較べて、何と気持ちの良いものかと思いました。また、近所の知合いで家が焼け残った方が、ご親切にも貸して下さった3枚の畳をバラックに敷きつめた時や、その後、広島を引き払ってから、曲がりなりにも、蒲団の上で寝られるようになった時にも、こんなにも気持ちの良いものかと感激し、立ったままで家の中を歩けたり、天上板があるのにも感心しましたが、すぐそれに慣れてまい、それが当たり前になってしまいました。快適さを求める人間の欲望の限りなさに感心すると共に、逆に言えば、人間、いざとなれば、どうにでもなるし、何とでも出来るものだと思えば度胸がつきます。

 火災が近づいて来た時、母はお金や預金通帳と、お鍋一つに米を入れて持ち出して逃げましたので、原爆第一夜も、焼跡の残り火で炊いたご飯を食べられました。また、学校に行った帰り道に、握り飯と沢庵を配っているトラックに出会ったので、家族の分もと言って沢山貰って上着に包んで喜んで帰りました。なにしろ食料不足が続いていて、水のようなお粥や、豆粕(24)、コーリャン(25)など今では鶏の餌にもならないようなものしか食べていないで、いつも飢えていた食べ盛りの中学生にとって、何年振りかで食べるお米のご飯ですから嬉しくてたまりませんでした。食事の終ったとたんに、次の食事が待ち遠しい程、ひもじい思いをしていた当時のこと、また、何と言ってもまだ子供のことですから、それこそ何年ぶりかの握り飯を貰って喜んでいたのは、亡くなられた方々には申し訳ないいことでした。このような炊き出しは一週間位続けられたと思います。また、原爆以後は、近所の焼跡に住んでいる人が殆ど居なくなっていましたから、爆風で飛ばされて来た持主不明の家庭菜園の南瓜や、その葉柄を拾ってきて食べたりしたので、被災前よりも良いものを食べられました。当時は食料が非常に欠乏していましたから、何処の家でも庭や空き地には野菜や芋を植えていましたが、中でも南瓜は作りやすく腹にたまるし、狭い所に植えても庭木や垣根に這わせればよい利点があったのです。

野宿終え 一枚の 暖かさ

焼跡の 木切れ集めて ロビンソン

炊き出しの 握り飯が 嬉しくて

立ったまま 歩ける家が あったかと



4.2 焼跡生活

 焼跡の町には、焼跡特有の臭気が立ちこめていました。また、時々プーンと強い悪臭がすると、焼け焦げた腐乱死体があるので、踏まないように気を付けて歩く必要がありました。学校へ行く途中に、完全に白くなった頭蓋骨が3つ、焼跡に並べて置いてあり、随分長いことそのままになっていました。また倉庫か何かと思いますが、部分的には一ヶ月程の間、市内の火災が続いていました。

 今と違って、当時は、福屋デパートと西日本新聞社位しかコンクリート製のビルが無かったので、木造家屋の一切が焼け落ちた市内は遮るものが無く、白島から宇治名方面の海まで一望のもとに見通すことができました。何時頃かは覚えておりませんが、「新型爆弾の毒のために、75年間は広島に人間は住めなくなっている」との噂が流れて来たことがあり、海まで見通せるようになってしまった広島の焼跡を見て、100年近くも無人の街になるのかと、感慨にふけったことがあります。

 戦争が終わって軍の学校に行っていた兄が帰り、転勤で東京に行っていた父も帰ってきて、長崎の高浜村に移るために広島を後にする9月まで、一家六人が畳三畳の焼跡の乞食小屋で暮らしました。



4.3 傷の手当

 母や姉達を連れて、赤十字病院その他の救護施設をあちこち歩きましたが、病院自体が焼けてしまっている上に、重傷者が足の踏み場もない程一杯そこら中に寝ている状況ですから、軽症者は初めから相手にしてくれません。鰯の黒焼きのように真っ黒に焼けただれた顔をし、男だか女だか解らない丸坊主の人がお粥を食べさせて貰っていましたが、真っ黒な顔と、きれいなピンク色の口の中、真っ白な歯の対照が印象的でした。

 大きな火鉢(26)の中に色々な物を入れ、逆さにした鉄製の丸いガーデンテーブルを蓋にして庭に埋め込んであったのが、完全な状態で残ったのが大助かりでした。掘り起こして出てきたのは、客用の上等な紅茶のセット、親父の取っておきのジンと料理用の油一瓶づつ等です。ジンは傷口の消毒に、火傷には油が役立ちました。母の顔の火傷跡はやがて、かさぶたになって来ましたが、時が経つつにつれて、乾燥して堅くなったかさぶたが顔に張り付いて、痛いと申しますので、毎日、焼跡から拾ってきた細工用のピンセツトで、かさぶたを剥がしては、油を塗ってあげました。潰れてしまったかと思われていた片目も、顔の腫れが引くにつれて次第に見えるようになりました。また、何年かする内には、あれほど酷かった火傷も、ケロイドにならず、全く痕を残さず完治しました。原子爆弾の直射による火傷だったので、皮膚の表面が瞬間的に焼けただけで、真皮がやられなかった為かと思います。母のかさぶたを剥がし、油を塗るのに使ったピンセットは、焼跡の灰の中を引っ掻きまわして、何か使えるものがないかと探しまわって拾い出してきた物の中の一つです。その昔、口の細い瓶の首を通して瓶の中に、瓶の口よりも、大きなお人形などを組み立てるお遊びに使ったものだそうで、優雅な暮らしをしていた頃に、暇に飽かせてやっていたお道楽の道具が図らずも大いに役に立ったのです。

ジン 油 庭掘り起こす 貴重品

かさぶたを 剥がして油を 日課にし



4.4 蚊と蝿

 原爆後、暫くして発生した蚊は、ものすごいものでした。 あんなに凄い蚊はその後、見たことがありません。ものすごい、ワーンと蚊が群がっていて、そこら中が蚊柱の様ですから、とても寝られたものではありませんでした。足や顔に布を巻き付けてもその上から刺されるし、小屋掛けをしたとは言え、トタン板一枚の屋根があるだけですから、屋外に寝ているのと同じで、蚊の群から逃げられません。そのうちに蚊の数が次第に減って、今度は、蝿が大発生しました。その蝿の発生量たるや、これも、ものすごいもので、ご飯の上が真っ黒になり、追っても追っても駄目で、一緒に食べてしまいそうでしたが、これも、その内に自然と納まりました。そこら中、死体が埋まっていて、けが人の傷口にも、蛆が湧いていたのですから、蝿の発生源はいくらでもありますし、蚊や蠅を補食する大型の天敵がいなくなってしまったなど、自然界の生物バランスが崩れたものと思われます。

 生態学の実験の教える所によると、栄養分を含む水を放置しておくと、先ず、ある種の第一の微生物が発生して急速に繁殖するが、それの全盛は長続きせず次第に数が減少すると共に、第二の微生物がそれにとって代わり、それの全盛も、また長く続かず、第三、第四の生物が次ぎ次ぎと現れているうちに、それらの全部の生物が、少数づつある種の均衡を保って、環境生態学的な安定系を形成して共存するのだそうです。この話を読んだ時に、広島の焼跡生活を思い出しました。



4.5 お風呂

 焼跡では、あちらこちらで水道管から水が洩れて、噴出していました。 当時は蛇口近くの配管が鉛でしたので、火災で鉛が熔けてしまったものと思われます。私の家の風呂はタイル貼りの風呂で外釜式でしたので、火災で釜が壊れてしまい使えなくなりましたが、焼跡に建てたバラックの目の前に、お隣さんの五右衛門風呂(27)が健在でした。持ち主の姿は全く見えないので、燃え残りの材木を集めては、これを借りて、お風呂をたてて入っていました。火災が治まって、暫くすると、市中のあちこちで、焼け残った風呂桶を取り外して持って行く人達が現れるようになり、お隣の風呂釜も無くなってしまいました。

 無人を幸いと、当時貴重だった鉄製の風呂桶を取り外して持って行ってしまうのですから悪い奴がいるものです。戦争中はそれなりに国としての目的があり、国民全体の一体感があって秩序が保たれていましたが、戦争が終わると共に、人を押しのけて、自分さえ良ければ良い、弱肉強食の油断も隙もならない、殺伐とした戦後の激動の時代が始まっていたのです。



4.6 活字飢餓

 市内全体丸が焼けになって、ラジオ、新聞、本、雑誌、教科書等までが、全く何も無いし、看板の字すら無い石器時代のような生活が続くと、今の方にはご想像にはなれないとは思いますが、無闇に何でも良いから活字を読みたくなる、一種の活字飢餓状態になりました。

 ちょうど、こんな時に、家の前の路上にリヤカーが一台転がっていて、周りに本がいっぱい散乱しているのを見つけました。お向いの小日向さんが荷物を疎開させるべく、リヤカーに積み込んでいる最中に爆撃を受け、そのまま放置して、広島を退去されたのです。

 もう時効だとは思いますが、悪いこととは思いながら、その中から何冊かの本を頂いてきて、毎日、読んで暮らしました。無断借用した芥川全集はブルーの荒い布製の立派な装訂のものでした。今でも、近くの図書館にそれと全く同じ装丁の芥川全集があり、当時のことを思い出します。「薯粥」、「蜘蛛の糸」、「トロッコ」、「地獄篇」などをこの時読みました。

 また、小日向さんには重ねて申し訳ないことながら、読み終ったものから、便所の落し紙にちぎって使ってしまいました。便所自体は汲み取り式ですから問題はないのですが、何も彼も、すっかり丸焼けになってしまって、新聞紙すらなく、他には紙が全く無かったので焼跡に一月ほど暮らす内に、小日向さんから無断で頂いた蔵書は殆どなくなってしまいました。

 ちなみに、小日向さんは、文理大の英文学の先生で、焼ける前に親父の所に遊びに見えた時に、

 「敵性語の英文学などをやったのは、一生の不覚だった。」

などとぼやいて、親父が何か慰めていたことを思い出します。

焼け跡で 活字に餓えて 芥川

芥川 終わった順に 落とし紙

原爆の 焼け跡で読む 地獄編



4.7 デ マ

 新聞、ラジオなどが全くない焼跡では、情報不足の中で、口から口へと色々なデマが飛び交いました。その時本当だと思ったのが、「デマ」だったり、逆に「デマ」だと思った方が本当だったりした訳ですが、当時焼跡に流れた噂の幾つかの「デマ?」を紹介します。

A. 今度のアメリカの新型爆弾に対して、日本でも強力な新兵器『冷凍爆弾』で

アメリカ本土に対する報復爆撃を行った。

B. 日本にも「マッチ箱一つ位の大きさで、アメリカ艦隊を一挙に撃滅できる新型爆弾がある」

C. 今度の新型爆弾は、白い布を着ていれば防げるので恐れるに足らない。

D. 新爆弾の毒のため、今後75年間は広島に人が住めない。

E.広島に投下された新型爆弾「ピカドン」(27)は原子爆弾である。

F. 日本はアメリカに降伏し、戦争は終った。

G. 髪の毛が抜け始めたら死んでしまうが、スルメを煮て食べさせれば死なない。

H. 火傷に人の骨を粉にして塗ると治る。

 ソビエトが参戦したことは、たまたま、学校の焼跡に行った時に、先生がソビエトが日ソ不可侵条約(29)に違反して参戦し、関東軍がこれを迎撃中である旨を報じた新聞を見ておられて、

 「関東軍(30)やっているのだか、やられているのだか。」と、

 寂しく言っておられたのが気になり、知っていました。

 新聞も来ない、ラジオもない焼跡住いにも、いろいろな噂やデマや情報が乱れ飛交いましたが、本当に戦争に負けたことがはっきりしたのは、敗戦後一週位経ってからでした。物心ついて以来続いていた戦争が、本土決戦になっても、最後には必ず勝つと、先生も世間も政府も国中で叫んでいた戦争が、敗け戦に終わってしまうとは信じられず、最初の内は、多く流れたデマの一つだと思っていました。

 「原子爆弾」の語を焼跡で、かなり早い時期に聞いた覚えがありますが、当時の中学生の知識では、分子とか、原子と言う言葉を知っているだけで、なんの話か全く解る筈がありません。当時、家には陸軍司令部の浜田大尉が下宿しておられました。当時、本土決戦に備えて新しく師団を広島に設置するなどのため、軍人の住宅が不足したらしく、父が東京に転勤になり家族だけで住んでいる割に広い社宅だったことからか、将校さんを一人置いてくれないかと軍から頼まれたのです。食料事情の悪い当時のこととて、食事なしで、殆ど使っていない2階の8畳と10畳の和室をお貸しし、2階の父の書斎はそのまま私が勉強部屋として使っていましたが、女子供だけの家にとっては、若い軍人さんの存在は心強い存在でした。浜田さんは、原爆当日、たまたま演習のため広島の郊外に出掛けておられたため、危うく原爆を免れ、全く無傷で昼過ぎには広島市内に入り、原爆投下直後の市内の被害状況を見られたそうですが、余りの悲惨な状況に驚き、演習用のカメラを持っていたのに一枚も撮らなかったと後年話しておられました。戦後は、軍人の復員業務をしておられ、東京の我が家に時々遊びに見えていましたが、早く亡くなられました。原爆後は、司令部の焼跡暮らをして、白島の焼跡にもよく様子を見にきてくださり、何かと面倒を見て頂きました。原子爆弾の話は浜田さんから聞いたものと思われます。浜田大尉は情報活動を主眼とする陸軍中野学校の卒業だそうですから、軍司令部からの情報入手も早かったものと思われます。

 原爆投下後数日経ったある日、浜田さんの呉市の実家から浜田さんのご母堂と姉君が、お線香と蝋燭を持って白島の焼跡へ浜田さんを訪ねてこられました。呉市からは広島が強力な新型爆弾による大爆撃を受けて猛烈な噴煙を上げているのがよく見えた上に、生存者がいないとの話も伝わっていたので、到底生き残っているとは思いもよらず、浜田さんの住んでいた跡になりともお詣りをしようと来られたのです。

 「お線香と蝋燭なんかじゃなくて、何か食い物でも持ってくればよいのに、馬鹿だなあ。」と、後で連絡がついた時に浜田さんが笑っていおられました。

 また、浜田さんについて、こんなこともありました、原爆投下の少し前の7月24日のことです。浜田さんが、司令部のあった広島城のお堀から大きな蓮の花を何本か採ってきて、私の弟の孝秀のお誕生日のお祝いだと言って下さったのです。蓮の花と言えば、仏様の花。お誕生日のお祝いにふさわしくないような気がしますが、よく見るときれいな花です。花も何もない戦争中のこととて、一生懸命に採って来られたのでしょう。母も、びっくりしたようですが、さすがに直ぐに、

 「まあ、きれいなお花! どうも、どうもありがとうございました。」

 と、言って、花を活けていました。それを見ていた皆川の叔母さまは、

 「浜田さんたら、まあ、縁起の悪い花など持ってきて。それに、米子さんと言ったら、『まあ、きれいなお花!』なんて、喜こんだりして。」、

 などと、戦後になっても、広島の話になると、よくしておられたものです。

 広島の蓮の花が、笑い話に終わって幸せでした。

  先年、タイに行った時、ホテルの部屋に蓮の花が活けてあり、浜田さんを思い出しました。仏教国の先輩であるタイ国では、蓮の花が縁起の悪いなどの考えはないようです。

 また、海軍兵学校の生徒だった泰弘兄の話によると、広島から20Km離れた江田島でも原爆投下の際にかなりの衝撃が感じられたことや、広島市街が壊滅したことを遠望できるので、何か、もの凄い新兵器の攻撃を受けたことは確かであるが、広島市周辺の山並みの景色に変化がなく、山まで吹き飛ばされてしまった訳ではないところを見ると、それほどの破壊力がある爆弾ではない。まさかアメリカが原子爆弾の開発に成功した訳ではあるまいと、海軍では言われていたそうです。現在の進歩した原子爆弾原子なら、周辺の山まで吹っ飛んでしまうのでしょうが、広島の原爆は原爆とは言え、実用機第一号の幼稚な小さなものだったのです。

 爆弾や核爆発、原子力などについては、当時の中学生はもとより、一般の人達も全く知られていませんでしたが、軍関係者にとっては、桁違いに強力な爆弾が、実現は難しいものの、理論的に可能であることは常識だつたのでしょう。

敗戦を デマと笑った 一週間

本当に 負けたらしいと 焼跡で

そういえば Bさん 低く飛来する 



4.8 兄、帰る

 戦争が負け戦に終ったことがいよいよ確かになって軍隊が解散になり、軍関係の学校も解散になることになったと報ぜられ、江田島の海軍兵学校(海兵)(20)に行っていた兄の泰弘が帰って来るのが待たれることになりました。海軍兵学校は陸軍士官学校(陸士)と並んで大日本帝国の将校を養成する学校で、中学、高等学校、大学へと進むコースと共に、中学から受験して入学できるエリートコースでした。なかでも、学科だけでなく身体も丈夫でないと入れない最大難関の一つで、戦争真っ最中の当時のことですから、今なら東大に憧れるように当時の中学生は「陸士」・「海兵」を目指したものでした。中でも短剣を吊った「海兵」生徒の制服は真っ白な、腰までしかない短い上着に腰には短剣を付けた、カッコイイものでしたから、何となくやぼったい制服の「陸士」よりも、ずっと人気がありました。

 そんな、兄の帰りの待たれるある日、焼跡の小屋に海軍兵学校の制服を着た人が現れました。兄が帰ってきたとばかり思い、喜びましたが、知らない人です。お向いの小日向さんの甥子さんで、「海兵」大竹分校から東京の自宅に帰る途中、広島駅での汽車待ち時間を利用して、小日向さんを訪ねて来られたのだそうです。 ちょうどその頃、当時の超貴重品の砂糖がバケツ一杯、配給(31)になっていました。それをお湯に溶かしてお茶代わりにご馳走しながら、小日向さん一家は全員無事で被爆後、田舎の方へ避難されたことなどをお伝えしました。また、家でも海兵に行っている兄の帰りを待っていることを話して、兄の復員について何か情報が得られるかもしれないと広島駅までご一緒しました。駅前は白い制服の兵学校生徒で埋まっていましたが、大竹分校の生徒ばかりで、兄のいた江田島本校の人はいません。上官の方にも聞いていただきましたが、江田島本校も同様に解散になったので、ほどなく帰宅するだろうという以外はっきりしたことは判りませんでした。

 一方、泰弘兄がリュックを背負い、白い海軍毛布を丸めて腕に掛けて帰って来たのは、それから二・三日ほど経ってからでした。泰弘兄の話は次のとおりです。

 「敗戦に伴なって軍隊が解体になり、軍関係の学校生徒についても全員自宅に帰ることになつた。江田島から広島に上陸し、徒歩で広島の焼跡を通って広島駅に着き、ここから列車で長時間かかって東京駅に着いたのは真夜中になっていた。 広島に居た母や姉弟達家族については、原子爆弾による被爆であり、広島市内を通過しただけでもその威力の偉大さが充分解ったので、よもや生き残っているとは考えられない。ともかく、父の居る東京に行くべきであり、家族の居なくなった焼跡に行く必要がないと思った。

 東京駅の地下道でまどろんで朝を待っていると、近くで、広島の焼跡での体験談をしている海兵生徒がいる。知らない人だが、聞くともなく聞いていると、

 『生存者が居ないと思われていた広島市内の焼跡にも生存者が住んでる様子だった。広島駅から程近い白島中町の叔父の家近くの焼跡で、とある小屋を訪れて叔父の安否を問い合わせ、叔父一家の無事を確認することができた。小屋の住人の長男も海兵の一号生で、家族一同がその帰りを待っているとのことで、いろいろと復員の状況について聞かれた。その際、その焼跡の乞食小屋で、長年の間お目にかかったこともない本物のお砂糖入りの甘い紅茶を、すばらしく上等なティ−セットでご馳走してくれたのには驚いた。』

 『白島中町の乞食小屋で海兵生徒の帰りを待つ母親と子供』の話を聞いて、びっくり仰天。確認すると、確かに我が家の話に間違いなし。直ちに広島にとって返すことにした。」

 敗戦直後のこととて列車の数が少ない上に、復員軍人の移動が加わった超満員の列車や貨物列車を乗り継いで、真黒になって広島に帰ったのは、何日も後だった。広島駅まで来ていて、あと15分も歩けば自宅があるのに、家族の骨を拾うことも考えずに、一路東京へ向かった兄の心情を、平和な今の時点で推量することは難しいことですが、当時は原子爆弾の威力が現在よりも過大に信じられていて、残留放射能の影響で今後75年間は広島に人が住めないとも言われていたこと等から見ても、とても生き残っているとは思えなかったのでしょう。また、何と言ってもまだ18歳の軍人の卵ですから、骨を拾うなどの発想が出なかったのだと思います。また、父のすぐ近くにまで帰って来ながら、その話を聞くやいなや、即刻東京から広島に取って返した行動もまた、驚きものですが、当時は鉄道輸送が壊滅的な打撃を受けたため、列車の本数が極めて少なくなっていましたし、復員して自宅へ帰る復員軍人を優先して乗車させており、許可証がないと切符が買えない状況にありましたから、復員軍人としての特権を行使できる最後の機会を逸することを恐れて、これまた、東京駅から一時間もあれば行ける落合の父の所へは寄らずに一路広島へ向かったのだと思います。

 さて、兄が東京駅から急遽引き返す起因となり、小日向さんの甥子さんを驚かせた、「焼跡の小屋でご馳走になった、長年お目にかかったこともない本物のお砂糖入りの紅茶と、すばらしく上等なティ−セットで」のお話には、種明かしがあります。 戦争が激しくなり、東京はもとより各地の地方都市も敵の空襲を受け、広島に対する空襲も必至と思われた頃、空襲に備えて荷物を知り合に疎開させたり、庭に穴を掘って埋めたりしました。

 空の火鉢の中に、食用油や父の飲みかけのジン一瓶などと一緒に紅茶のセットを納め、庭に掘った穴に入れて、逆さにした白いガ−デンテ−ブルで蓋にして埋めておいたのが助かったのです。こんな時に大事に仕舞っておくのは普段には使わない客用の上等なティ−セットになるのが人情ですから、あまり実用的ではないが、一番上等なティ−セットを乞食小屋で使う羽目になったのが面白いところです。戦後のドイツで、着る物がなくて困った人が、大礼服を着て歩いていた人がいた、との話を思い出します。 

 お砂糖など、長年見たこともなかったのですが、ちょうどその頃、半焼けになった軍関係の倉庫から放出されたと思われる泥だか錆だかで茶色に変色した砂糖が、バケツ一杯配給になったばかりでした。お湯に溶かしてお出ししたのが、上等なティ−セットに騙されて紅茶と錯覚されたのです。茶色に変色した砂糖とは言え、お砂糖などを味わったのは何年振りだったのは、我々娑婆の人間だけでなく、物資が豊富と言われていた軍関係の人も同様だったのでしょう。庭に埋めておいた食料油は母の火傷の治療に、ジンは姉や弟の傷の治療に役立ち、正解でしたが、焼跡の乞食小屋で一番上等なティ−セットが唯一の食器で、箸もなくて焼跡から拾った犬釘を箸代わりにしていたのはおかしな話です。もっと実用的なものを疎開させておけば良かったのにと当時は思ったものでした。 



4.9 疎開荷物

 戦後長いこと市長をやっておられた荒木さんは、当時父の会社の部下だったことから、我が家の疎開荷物を預かっていただいておりましたが、荒木さんのお宅が幸いなことに焼け残って、疎開荷物が一個助かったことが解り、母と引き取り行きました。途中で敵機が一機、もの凄く低空で頭上を通ったのにおびえながら柳行李を一つ担いで帰りましたが中身を見て、がっかりしました。何やら、今の生活には、あまり関係なさそうなものばかり入っていたのです。

 ずっと後になってその重要さが解かったのですが、その中身はいつの日か戦争が終わって、姉の愛子がお嫁に行く時の為にと母が買っておいた留袖や、私達の子供時代の写真のアルバムだったのです。

 事実、世の中が落ち着いてきて姉が結婚する時に、この留袖を着ましたし、丸焼けになってしまった我々にとつて、このアルバムが、我々家族の戦争前を思い出す唯一の写真となりました。

 


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