6. 長崎県高浜村

 戦争が終わるとすぐ、父は大学卒業以来勤めてきた三菱重工を辞めることになりました。武蔵(32)を初めとする軍艦や飛行機、魚雷、戦車等を製造して来た軍需工場にとって、最大の顧客の軍が壊滅してしまったのですから仕方のないことですが、住む家は無く、働き口も無く、けが人を抱え、敗戦後の混乱と、ものすごいインフレ(33)のもとでの父の苦悩は大変なことだったと思います。家族の健康状態と、住宅不足の東京には帰れない事情を考慮して、父の下した結論は、長崎の高浜村の峰さんが離れの一部屋を貸して下さるので、ここに暫くの間、引っ込んで、世の中の落ち着くのを待つことでした。大学卒業以来勤め上げて、やっと貰った父の退職金も、忽ち無くなるし、定期収入がない、預金は封鎖される(34)、などでお金がないし、戦争中はそれなりにあった食料配給制度(31)も、敗戦後は充分に機能しないなどなど、戦後の高浜村での生活は厳しいものでした。 

 六畳一間に一家六人が入ったのですが、台所がないので、拾い集めてきた石で庭先にかまどを築き、廃材で差し掛け屋根を作りました。水道も井戸もないので、毎日何回も天秤棒の両端にバケツを下げて、近くの井戸に水汲みに行くことや、山に焚き物用の枯れ枝を採りに行くのも日課の一つでした。闊葉樹の下枝は樹が成長するにつれて、幹の下側の方から自然に枯れてきます。この枯れ枝は、「ベエラ」と、呼ばれていて、他人の持ち山のものでも、誰でも自由に採ってよいことになっていました。火付きが良いので、薪に最初に着火する時の焚き付けに使われるものなのですが、薪を買うだけのお金がないので、炊事にはこの「ベエラ」や、海岸に流木を拾いに行っては使っていましたから、水汲み、薪採りと何かと忙しい毎日でした。現金も必要なので、たまには、たくさん採れた「ベエラ」や「ツワブキ」の新芽の葉柄を、6キロ程離れた漁師町の野母の町へ売りに行ったこともあります。

 このような生活の中で、何よりも困ったのは、村には小学校しかないので、学校に行けないことでした。中学校のある長崎まで歩いて、数時間もかかるので、通うこともできません。世の中が次第に落ち着き始めているのに、一人こんな片田舎に取り残されて、学校にも行かないでは、どうなるのかとの思いが強く、母屋の儀兵衛さんが昔使った参考書などを借りてきて、時間を決めて勉強を続けました。この頃、何かで急に学校に通えるようになって大喜びした夢を見たことを思い出します。

 数学の先生は兄で二次方程式と因数分解を、英語は姉が先生、何故か、 "Thinking in English" という題の英会話の本があったのを教材にしていました。

  "What does a teacher do?"

  "What does a painter do?"

  "What does a carpenter do?"

などと、姉がどんどん質問して来るのに対して、

  "He teaches."

  "He paints."

  "He makes a house"

などと間髪を入れずに答える練習をしてくれましたが、これが、後年非常に役に立ったと思い姉に感謝しています。

 高浜村では、小学校の図書室から、手当り次第に本を借り出して読みました。 

 子供の頃から昆虫、特に蜂が大好きで、蜂ばかり採ってきて標本を作ったり、蜂の巣造りを見ていて、顔を蜂に刺されたりしたことがありますが、ファーブルの「昆虫記」全十巻を借りてきて読み、昆虫の本能の不思議さに驚き、自然の面白さに感銘を受けました。また、自然現象を観察して、何故かと疑問を持ち、仮説を立てて、それを実験で実証していくファ−ブルの科学的手法の美しさに魅せられたことが、後年、理系の道に進むことに繋がって行ったように思えます。また、徳富蘆花の「思い出の記」の中で主人公の少年が、父親破産の貧乏と挫折の中から、向学心に燃え、青雲の志を抱いて九州の田舎を飛び出し、宇和島、神戸で働きながら学んだ後、九州の故郷を出てから4年目に遂にあこがれの東京に出て大学で学び始める物語に、自分の境遇を重ねました。海外旅行や、外国への留学も珍しくない今の人には想像し難いと思いますが、その頃の、九州の片田舎から見る東京は、明治時代のそれに似て、あまりにも遠く、中学にも行けないでいる浪人の我が身に思い合わせて、「東京」、「上京」、「遊学」、「大学」などの語句が、光輝いて、眩しく感じられ夢中で読んだことを思い出します。 

 高浜村での生活は、このような貧乏生活で、学校にも行けぬ中学浪人で学年が遅れることになりましたが、きれいな空気を吸っての薪取り、水汲み、隣町の漁港まで出掛けての鰯拾い(35)などの田園生活で、一家は健康を取り戻し、立ち直ることができましたし、私が70歳近い現在まで仕事を続け、山登りを楽しむことが出来るのは、自分の生活だけで手いっぱいのあの、厳しい戦後のひどい時代に、焼け出されの我々一家を暖かく迎えて色々な形で助けていただいた多くの方々のお陰であり、また、この時代の田園生活で体力の基礎ができたからであると思い、当時、健康回復を第一優先にして広島から高浜村へ移住する選択をした父の決断に感謝します。また、それまでの都会生活では見ることのできなかった、子供から年寄りまで一日中懸命に働く農民の生活を見ることができましたし、農業がいかに重労働を要するものであり、長い間の蓄積に支えられた技術にもとずいたものであるかを初めて知ることができたのは、大きな収穫だったと思います。 

 火傷をした母や外傷を負った姉や弟はもとより、外傷一つなかった私も、広島に居た間中、下痢が続いてました。衛生状態が悪かったこともさることながら、残留放射能の影響を受けて、胃腸の粘膜を損傷する、軽い放射線障害を起こしていたのではないかと思います。

 父が職を見つけて東京へ、兄が早稲田に入って東京へ、姉も職が見つかり大村へと、次々と高浜村を後にしましたが、私も福田さんのご好意で、大村市の福田さんのお宅に下宿させていただいて、大村中学に通えるようになりました。

 戦時中の、軍隊の初期教育のような軍国主義の中学から突然、戦後の民主主義の中学へ移った私はあらゆることが驚きでした。生徒は先生のことを、「教員が、」などと、言っていますし、先生のほうも自信を失っておられるようで、タイムスリップして、とんでもない全く別の世界へ、いきなり投げ込まれた感じでした。都会からの疎開者、外地からの引揚者や軍関係の学校から移ってきた人達も結構大勢いて、純朴な地元の人達より大きな顔をしていました。予科練(35)帰りの人は、人生の裏を見てしまったのか何となく、すさんだ感じがし、煙草を吸っている人もいました。

 その後母や弟も順次高浜村を出て大村市に移って、しばらくの間、母姉弟と私の四人で暮らしましたが、その内、姉も東京に仕事を見つけて上京しましたので、母と弟と私だけの寂しい大村暮らしになりました。その頃も相変わらずお金はないし、食料事情はやや好転してきたとは言えまだ哀れなもので、郊外に出ては野草を採って食べたりしていました。そんなある日、母と二人、“ノビル”の良いのを見付けて採っていたら、農家の小父さんが寄ってきて、

 「この辺りをうろつかないでくれ。このようなことをしていると、御身のために、なりませぬぞ!」

 と言ったので、びっくりして帰ってきたことがありました。母と二人、余程みすぼらしく、空き巣狙いか何かと間違えられたらしく、なさけなくなりました。

 こんな時、母が歌を教えてくれ、一緒に唱ったことを思い出します。歌は賛美歌でした。

 母の父親は、海軍の軍人で横須賀や呉への転勤生活が多く、東京に居ないことが多かったことから、母は小学校の頃から寄宿舎のあるミッションスク−ルで育ちましたので、本がなくても歌詞を覚えている心の歌は、賛美歌だったのでしょう。神様がいるとは思っていなかったようですが、自分のことは考えずに、人のことだけを考えてつくす、神様のような人でした。


 賛美歌 437

母君に勝る ともや世にある

命の春にも 老いの秋にも

優しく労り いとしみたまう

母君に勝る ともや世にある


 私達も東京に戻って、最終的に一家全員が一緒になり、私も旧制の都立小石川中学へ通えるようになったのは、被爆後3年目の昭和23年のことでした。


前の章へ   目次へ   次の章へ

本体験記についてのご意見等はこちらへ。kitagawa@mqb.biglobe.ne.jp