7. 昭和26年 広島・長崎シュモーハウス・ワークキャンプ(原爆被爆後六年目夏)

昭和20年9月に広島の焼跡を引き払ってから、長崎の高浜村での浪人生活、大村中学での再開した中学生生活を経て、東京に帰ったのは昭和23年でした。 その頃からやっと世の中は落ち着き始め、わが家の経済もやや改善されて、昭和26年には早稲田に入ることができました。 

その頃住んでいた、新宿の都営住宅にアメリカのキリスト教団体のアメリカ・フレンド奉仕団が建てた施設があり、ハートマンさん夫妻が住んでおられました。 ハートマンさんは第二次大戦中、。戦争に反対する平和主義を貫ぬき通し、良心的戦争反対者として徴兵を拒否された方で、徴兵になって戦争に参加する代わりに軍に収容されて、精神病院の雑務をさせられていたそうです。戦後は、高校の数学教師の仕事を休職して「平和を守り、日本とアメリカとの間に架け橋を創る」ことを目的として、アメリカフレンド奉仕団から日本に派遣されて来ておられました。

私はここでフォークダンスや英会話を習ったりしていましたが、週末には奉仕団の主催する、「ワークキャンプ」活動に参加して戦災孤児の施設などに行って、子供達と遊んだり、土木作業やペンキ塗りの奉仕作業に参加していました。「ワークキャンプ」は、アメリカフレンド奉仕団が主催する、今で言う、ボランティア活動の一種です。奉仕団関係の人や各大学からの人が週末に集まって一泊二日の奉仕作業をするもので、戦争の傷痕からまだ立ち直れないでいる人達への手助けが出来ることや、そこに来るアメリカ人達と話しをしたり、一緒に仕事をしたり遊んだりすることが面白くて、アルバイトのない土日に、よく出かけていました。

戦争が終わって、日本に進駐してきた占領軍は、日本人に対して高圧的で、兵隊の質も悪かったようです。中には、自分の名前以外の文字は書けないか、書けたとしてもスペリングや文法が、でたらめの人が多かったと、大村で暫くの間進駐軍の事務所に働きに出ていた姉が言っていました。当時進駐軍関係者専用車が山手線や中央線に連結されていて、大混雑の一般日本人を尻目に無料でガラガラの車両に平然と乗っているアメリカ人に引き替え、ワ−クキャンプに来る人達は日本人と同じ立場に立って話をする思慮の高い人達だったのが新鮮でした。

大学1年の夏休みに、広島・長崎の戦災孤児のために住宅を建てる、ワークキャンプのプロジェクトの話があり、早速これに参加することにしました。アメリカのシュモーさんが基金を出して戦災孤児のための家を、広島の江波と長崎の大浦に建てるもので、東京からばかりでなく、アメリカからも大学生が参加して、日米の学生が協同生活をしながら建築工事の手伝いをするものでした。

6年振りの広島駅に降り立つと、75年間は人が住めないと言われ、焼跡の煙と死体の臭いの立ちこめていた町に、今では、多くの人が行き交い、家が立ち並び、市電が走っていて、お迎えに来てくれた金髪女性のショートパンツが、眩しく感じられました。

地元の人に、広島市立中学校について聞いてみましたが、何の情報も得られませんでした。

広島には1週間程居ただけで、私は長崎でも行われているプロジェクトに参加することになり、9月まで長崎で仕事をしました。長崎ワークキャンプの責任者は、当時アメリカのキリスト教の団体から派遣されていた青年、JAMES WILSONさんだつたのですが、後年、彼が私の姉愛子と結婚することになるのですから、縁は異なものです。


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