10.昭和49年8月6日被爆後29年原爆記念日)

次の年、三光寺で行われた慰霊祭に初めて参列しましたが、遺族の方と顔を合わせるのは、生き残ってしまった者としては辛いものでした。聞くところによると、原爆当日の疎開作業組に当たっていながら、色々な理由で、たまたま、学校をお休みをしたために図らずも生き残ってしまった人が居たそうで、その人達にとっては、特にその感が強かったとのことです。そのため、生き残り組は遺族の方に会わせる顔が無いとしての、こだわり、があるので、遺族の方が中心になって行われていた慰霊祭に、長年の間参列できず、慰霊祭が終ってから、そっと、お参りをするような状態が続いていた。ご遺族の方々も次第に年をとられてくるし、亡くなられる方も出てこられる現状を考慮しなければならず、三光寺に仮設してある慰霊碑の移設問題や今後の慰霊祭の継続にも支障を生じる懸念があるので、感情のわだかりも次第に溶けて来たその年になって、先生方の斡旋で、初めて生き残り組がご遺族方の前に顔を出し、今後はご遺族の方々と生き残り組が協同して事に当たることになったとのことでした。

私のクラスのように、学校側の指示で軍に動員されて、当日たまたま広島郊外の作業に出ていたために生き残ったものは、まだ良いとして、色々な事情で当日の家屋強制疎開作業に参加しなかったために生き残った者にとって、最愛の子供を亡くされたご遺族との関係は極めて微妙で具合の悪いことだったのです。 

当日作業を休んだ事情として、連日の炎天下の作業に体調を崩したり。風邪を引いて休んだ人がいますが、少々熱があっても責任感から休まずに作業に出て亡くなられた親御さんの前には顔を出しにくいものです。また、当日は、登校日に当たっていて、中広町にあった学校に登校したが、遅刻してしまったので、皆が朝礼をしている様子を、校舎の陰に隠れて窺っていて助かった人もいます。

また、こんな人の話もあります。

「日本中の都市が殆ど敵の空襲をうけており、まだ空襲をうけていない都市は京都と広島くらいしか残っていないことから、近く広島への空襲が必至であると考えられていた。このような状況から、縁故を頼って郊外の農家の一間を間借りして疎開し、そこから広島の学校へ登校していた。疎開生活も長くなると、色々と母屋の人にとっては迷惑な話でもあり、何かとトラブルが起きたりして、疎開者は肩身の狭い思いをするものですが、ある時、母屋の人にこんな風に言われた。

『聞くところによると、広島では家屋強制疎開作業が進んでいて、取り壊した建物の廃材が沢山捨てられているそうではないか。あなた達も、此処に来て、色々と迷惑をかけているのだから、ただでも不足して困っている焚き物として、それを持ってきてくれる気はないのかね。』

そんな訳で、肩身の狭い居候の悲しさ、学校の作業をサボッて、お母さんと二人、朝早くまだ暗いうちに起きて広島に入り、勝手知ったる作業場に行って廃材をいただいて、リヤカ−に満載し、ほぼ広島を抜けた所で原爆が炸裂したので、危ないところで一命を取り留めた。」とのこと、ですが

「そりゃ−、何とも具合が悪いよ!」と、その友達は言っていました。

そんな訳で被爆後28年目にして、私も生き残り組一同に混じってご遺族達の前に初めて立つことになったのですが、その時ご遺族達の席から上がった、どよめきと、私達を眺めるその何とも言えない眼差しを忘れることができません。                

生き残り 遺族の前で 身が縮む

皇国の 必勝信じ 逝った友


前の章へ   目次へ   次の章へ

本体験記についてのご意見等はこちらへ。kitagawa@mqb.biglobe.ne.jp