11.学友達の死  

 昭和52年の33回忌を期して、原爆被爆死された学友達の当時の状況をご遺族の手記を集めた文集、「鎮魂」が出版されました。

 これら手記によると、原爆投下地点直下に当たる小網町の家屋強制疎開作業の現場で作業開始前の朝礼の最中に被爆しましたが、学友達はその場で即死した訳でなく、重傷を負いながらも、その大部分は動ける者が重傷者をかばいながら、単独行動をとることなく市外へ市外へと逃げていったようです。中には、級友ばかりでなく、他校の生徒まで連れて行動して自宅にたどり着いてから亡くなれた例もあります。被爆地からの脱出ルートは主として西に向かっており、己斐へ出たところでその多くが死亡しております。さらに、歩けるものは自宅に向かって歩き続け、或いは途中でトラックに乗せられて移動しており、草津、五日市、二十日市、遠くは大野陸軍病院まで消息が残っています。また己斐から横川、牛田と広島の北部を遠く迂回して市内東部へ移動したグループもあったようです。

 幸い生き残った高橋昭博君の手記によると、2年生1組だけはちょうど登校日となっていたため、爆心地直下の小網町の家屋強制疎開作業現場には行かず、爆心地から1.4キロの中広町の学校に登校していたとのことです。朝礼のために校庭で整列していた時に被爆し、両手両足の皮膚が剥けてぼろきれのように垂れ下がり、右手にガラス片が突き刺さった状態で、級友達と倒壊家屋の残骸を乗り越えて安全地帯へ逃れた模様を記録しています。

 石田晟君の調査結果によると、広島市立中学生徒全死亡者369名中遺体が確認された方々の数は合計198名で、全体の二分の一にしか過ぎず、残りは、被爆の現場からは逃れたものの 途中で力尽き、家族に看取られることもなく一人寂しく死んでいったものと思われます。当時は上着、ゲートル、帽子、靴まで必ず名前を書いていましたし、収容後死亡した場合、氏名、推定年齢等を記録してから火葬をしていたようですから、太田川の川岸に逃れて横たわっている内に満潮になり、静かに太田川に抱かれて葬られた方も多かったと推定されています。死亡月日別の死者数は下記の通りで、約半数が当日の6日から翌7日にかけて亡くなられています。

 広島市立中学生徒全死亡者369名の死亡月日別死者数表

  死亡月日      死亡者数
8月 6日 66名
8月 7日 56名
8月 8日 21名
8月 9日 9名
8月10日 7名
8月11日〜15日 11名
8月16日〜20日 10名
8月21日〜25日 6名
9月 2名
遺体確認小計 191名
行方不明者 198名
合    計 389名

 原爆の悲惨さを改めて伝え、幼なくして亡くなられた学友達を供養し、そのご冥福をお祈りするため、前記のご遺族達による手記の文集・「鎮魂」から、亡くなられた学友達の最後の模様を述べた部分を抜粋、整理して、下記に再掲させていただきました。    合掌



11.1 2年4組 故田坂道彦 父 田坂戒三記

(小網町周辺付近の家屋強制疎開作業に動員され、朝自宅を出たまま行方不明)

 8月8日 土橋方面から避難したであろうと思える己斐小学校を尋ねた。丸裸の被災者が数え切れないほど講堂の両側に整然と横たえられていた。勿論、毛布にくるまっいている者はいない。恐らく動けなくなった者を見附け次第運んだものであろう。中央が通路になり、人捜しの人々が往き交い混雑を極めていた。大声で名を呼ぶ人、死体を抱えて泣いている者。私は中学生を見逃すまいと入念に探った。多くは昏睡若しくは既に絶命しているように思えた。水を求める者だけが生きているのだといったも過言ではない。入口から中央どころに女性が四、五人、水を呼んでいた。それから3人おいて市立中学校の生徒が3人仰向けに並んでいる。帽子を被りズボンを届いたまま上着はない。シャツは裂け顔も腕も腫れ上がっている。名標はない。帽章で判った。

 「君は誰ですかあっ…名前を言ってごらん、水を飲まそうかっ…。」

 三人に対して同じように呼んだ。私は水筒を下ろし、同人等の口に水を塗ってあげた。返答もせず水も求めなかった。誰かに聞いて見ようとしたが医師も看護婦もいない。「市中の父兄の方はいませんかっ!」と、

 三度ばかり呼んでみたが返事はなかつた。私の子供には耳たぶに小さな穴があり首にはほくろがある。失礼ではあるが、幾度も探ったが見当なかった。私の子供も君達と同じだ、君達は国難に殉じたんだ、しかも帽子も被りズボンを履き、立派な姿である。感謝しますぞ、もう一度耳元に口を寄せて、

 「がんばんなさいよ、いいですか」と、

 呼んでみたが身動きしなかった。

 静かに合掌して去った。そして、中広町の市立中学校に伝えようとして行ったが、誰にも会えなかった。

 8月10日から高田郡内の心当たりを探り回ったが、手掛かりは掴めなかった。

 8月15日、終戦の御詔勅。「忍び難きを忍び」、との御聖憲を拝した。

 噫々(ああ)流血の惨禍(さんか)、空しく敗戦に至る。皆慟哭(どうこく)した。

 進駐軍のため葬式もできなくなるかも知れないとの噂もあり、遂に思いきって出広し、市役所の死亡証明を受けた。妻は泣き狂った。仏式で葬式を済ませた。そして彼のへ臍の緒を墓中に埋めたのである。



11.2 1年五組 故竹内勝俊 母 竹内ヨシ子

(小網町周辺付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。全身に火傷をして己斐の自宅にたどり着いた。母親は己斐の自宅から買出し(39)に行く途中横川駅の待合室に居る時に広島に原爆に遭い、市外に逃げた。母親が翌日自宅に帰って苦しんでいる同君の手当をしたが甲斐なく8月9日没)

 家族のことが心配で、後髪をひかれる思いでしたが、わが身が精いっぱいで古市まで逃げました。翌朝、急いで家に帰ってみると、子供は全身の3分2の火傷をして苦しんでいました。見れば、帽子を被っていた所だけ髪の毛が残り、出ている所は全部火傷をしておりました。ちょうどカッパのようでした。「水が欲しい、水がほしい。」と、言いましたが、水を飲ませると死ぬ、と聞いておりますので、それすらも与えてやることができず、母としてのその辛さ、悲惨さとは、言いようもありませんでした。幸い、家の前のお寺が軍医さんの宿舎で婿が軍人でしたので、充分手当をしていただきました。この時、「三日もてたら大丈夫」と、言われました。目、鼻、口だけ出して、後は全部包帯でまかれた、痛々しい姿で、水も飲まずがんばりました。助かって欲しいの一念で、一生懸命介抱しましたがその甲斐もなく、三日日の夜、やはりけがをして、似島に送られていた父親の帰りと入れ替わりのように、短い一生を苦しみ乍ら終わりました。この三日間、高熱にうなされ乍ら唸りどうしでした。副級長という責任からでしょうか、学校のことばかりで、「○○君は3時に下校せよ。」、「引けい!。」(これは家を倒す時の号令で「僕がこう言うと、皆んな一斉に“よいしょ、よいしょ”と言いながら家を崩すんだよ」と平素よく言っておりました。)とても学校のことが心配のようでした。 これを聞いた時、私は今度元気になったら、先生(中田先生と記憶しております)にお願いして、この役はやめさせてもらおうと考えておりましたが、この願いも空しく、「おかあさん、おかあさん!」と、言い残して、この世を去りました。

11.3 1年5組 故駒田耕治 母 駒田まち子

(己斐上町の自宅に級友と他校の生徒を連れて三人で帰宅。全身火傷で7日早朝に家族に看取られながら死亡)

 「飛行機の音がしたから僕は上を向いた。 そしたらキラキラ光る物がみえたよ、それから吹き飛ばされて何もわからなくなったんだ。気がついてみたらこんなことになっていたよ。まわりで友達が沢山死んでいたよ。」

 被爆した時のことを耕治はこう語ってくれました。全身大火傷、顔は腫れ上がり、手の指先に焼けた皮膚が垂れ下がり、上半身は裸、焼け残ったゲートルが僅かに付いている状態でした。 

 当時、私共は、己斐上町に住んでおりました。幸い災難を免かれた主人と長男が耕治を迎えに出かけ、己斐小学校の下手まで行った時、山の手へ、山の手へと避難してくる被災者のなかから,「お父ちやん」と、言って近づいてきたそうです。まさか息子とは思わなかった主人が、「お父さんではありませんよ」と、言うと、「僕、駒田耕治です。」と、いう言葉が返り、信じられない程変わった息子の痛ましい姿に一瞬たじろいだそうです。

 級友と他校の生徒一人を連れて帰ってきました。3人を寝かせ、痛がれば食用油を塗るのですが、瞬く間に皮膚は乾燥して、カチカチの木のようになってしまいました。盛んに水を欲しがります。「火傷をした人には絶対に水を飲ませるな。」、と言う言葉が頭にこびりついておりましたので、水を欲しがる度に、みかんの缶詰の汁をスプーンに一杯飲ませるだけでした。

 「苦しかったら言いなさいね。」と、言うと、

 「水が飲みたいと言う時が僕が一番苦しい時よ。」と、言いました。 

 数時間の命とわかれは、飲みたいだけ飲ませたのに、思い出すのも辛いことです。

 夜になり、不気味な程静まりかえった、周囲からは生きている人の気配が全くなくなりました。皆、避難していなくなってしまっていたのです。我々もこのまま家にいることは危険と思い、耕治を担架に乗せ、山手に避難しました。路上に担架を置き、それを囲み、暗闇の中で、主人、長男、次女、私と無言で時を過ごしておりました。今日一日のあまりにも悲惨な地獄絵巻のような出来事に、冷静に何も考えることができませんでした。何時間過ぎたでしょうか、突然担架に寝ていた耕治が、

 「僕は、元気になってアメリカをやっつけに行く。和子(次女)は看護婦さんになって、傷ついた兵隊さんを看てあげてくれよっ!」と大声を叫びました。

 これが最後の言葉でした。



11.4 1年3組 故佐々木貞次 母 佐々木 フサコ

(小網町周辺付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。祇園まで逃げてから、トラックに乗せてもらい、可部で手当を受け、6日夜11時頃に安佐町筒瀬の自宅に帰宅した。医者の手当を受け、家族に看取られながら9日午後3時安らかに永眠)

 貞次は夜11時頃に変わった姿で家に帰ってきました。顔は腫れて、目は糸のようになって、手は焼けただれていました。「よく帰って来られたね」と、言いますと、「土橋の家屋強制疎開作業の現場で朝礼をしていたら、ピカー!と光り、気がついてみたら、真っ暗で、足元に置いた荷物は、みんななくなり、先生も生徒も皆倒れていた。そのうちに、山が見えたので、山手を上え上えと歩き、祇園まで帰り、そこで、手や顔に油を塗られ、カンパンー袋貰って、可部行きのトラックに乗せてもらって、上八木で降りた。いつも世話になる森田の店に寄り、『おばさん、吉田帰ったか』と尋ねると、おばさんに、『あんた誰か』と言われ『僕、佐々木です』と言うと、おばさんは、『その身体では筒瀬には帰れないよ。可部に行って手当をしてもらわなくては、』と言って担架を出された。その時警察の車がきたので可部に行き、充分手当をして貰い、晶窮寺に寝せて貰った」とのこと。

 一緒に行った、古田君、沢君は、まだ帰らないかと、毎日のように心配していました。何分にも、後頭部が豆腐のようにプヨプヨで、とても助からないだろうから、ほしがるものは与えるようにと、お医者様から言われ、充分看てやれることができたのは、私達とても感謝しています。 

 古田君は己斐の学校で死んでみつかり、沢君は未だに行方不明です。 

 貞次は僅か三・四日の命で、9日午後3時に安らかに永眠しました。

11.5 1年2組 故尾崎優 父 尾崎徳三郎

(小網町周辺付近の家屋強制疎開作業に動員され、朝自宅を出たまま行方不明)

 風邪で高熱を出し、前々日まで欠席していたあの子が6日の朝もまだ少し熱のあるのに、明日は休みだからと、土橋付近へ動員作業に出かけたまま、帰らぬ人となりました。方々探しましたが死体すら見つけることができず、どこでどのようにして亡くなったのやら、さぞ苦しかったろうにと、今思い出しても涙の種でございます。



11.6 1年2組 故六岡由朗 母 六岡シカヨ

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員され、現場で全身に火傷、背中に大けがして自宅に帰った後、家族と近くの己斐川西堤防に避難した。8月7日午前5時過ぎ、ここで家族に看取られながら絶命した。)

 己斐川の堤防に逃げましたが、もう一つのリュックを取りに私は家に帰りました。そこへあなたが帰って来たのです。目は腫れてつぶれかけ、丸裸で全身焼けたただれ、背中に大きい傷を受けていて、見るも哀れな姿でした。私を見るなり、両手を合わせて拝むのです。私が、「お父さん、由朗が!」と、大声で叫びましたら、何か物を探しに家の中にはいっていた主人が、「おお、 由朗・・・・。」と、叫んでとび出してきました。 そして由ちゃんを抱いて、3人で堤防へ行きました。後になって近所の人に聞いたのですが、家の近くまで辿りついて、その人に、「僕の家はどこでしょうか。」と、訊ねたそうです。 家はみな崩れ、道は瓦礫の山になっていたので、わが家もわからなかったことでしょう。

 堤防に着いた頃から雨が降り初めました。お婆さん、由ちゃん、わたしの3人が1枚のトタン板の下で雨をよけている間に、主人が濡れ鼠にりながら、材木とトタン板を集めて、小さな小屋みたいなものを作ってくれました。しかし、家から持ち出した蒲団は、激しい黒い雨(22)で芯までぬれてしまいました。トタン波板の上にこの濡れた蒲団を敷いて、由ちやんを寝かせましたが、体が痛い、頭が痛いとしきりに苦痛を訴えるのを見ているばかりで、ほかに何もしてあげることができませんでした。 

 その頃堤防から西の方を見ておりましたら、己斐の山は一面に燃え始めていました。また、折れた電柱も燃えていましたが、激しい黒い雨に消えたのでしょう。 電車の枕木も燃えていました。由ちゃんがしきりに水を欲しがるので、飲ませてあげようと思って茶碗に雨水を受けましたが、いつまでたつてもたまる水は真っ黒で飲ませることができません。思案にくれていますと、電車通りの、泉の酒屋のポンプからよい水が出ると人が教えて下さいました。負傷者に水を飲ませると死ぬということは知っていましたが、この子はとても生き延びられないと思いましたし、また、余りに水を欲しがりましたので飲ませてもすぐ吐いてしまいますけど、飲ませました。「僕死ぬるから早くお医者に連れて行って頂戴。」と、言っているのに、連れて行くこともできず、寝かせると、また、すぐ起こして頂戴と言い、そして、「ああ、苦しい。」と、苦しみましたのに、何もしてやれず、ただ、焼けただれた体に油を塗ってやるだけで、他にどうしようもなかったのです。どれ程苦しかった事でしょう。心残りでなりません。その時従弟が、

 「お茶が沸いたからあげようか。」

と、言ってくれましたから、それを聞いて由ちゃんが、

 「ぼくにも頂戴。」

と、言ったので、わたしが、一滴づつ口に入れてあげていたら、3滴目に目を引き吊らせ、目玉を白くしたのが最後でした。

 短い一生でした。8月7日午前5時過ぎだったように思います。



11.7 2年4組 故為重寿雄 父 為重重雄

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。祇園まで歩いて逃げ、ここで傷の手当を受けた。担架で自宅に運ばれて佐東町緑井の自宅に帰り、父親に看取られながら6日午後2時に死亡した)

 9時30分頃電話がかかった。あなたの次男さんが祇園まで帰られ救護所で手当を受けられたが重体である。至急、迎えに来るようにと。私は急いで帰り、近所の方を頼み、戸板を持って祇園に行った。途中で被爆者が逃げてこられるのに限りなく出会う。皆火傷をしておられる。惨たる姿である。救護所に着き、寿雄を受取った。帽子の下だけ無事で、身体全体が包帯に包まれている。寿雄や、苦しかったであろう。よく此所まで歩いてくれた。迎えにきたぞ、家に帰るから安心せよと、4人で担って11時に家に着いた。寿雄や家に着いたぞ、おまえが手伝って造った防空壕は役にたたなかった。床でゆっくり休んでくれと寝かした。

 「おとうさん、水が飲みたい。」と、頼む。

 「水を飲んだら死ぬるそうだ、死んではならぬ、飲まずに良くなってくれ。」

と、飲まさなかった。それが、30年後の今でも可愛そうでならぬ。助けてやることが出来ない。すまなかつた。水もたっぷり飲ましてやればよかったと、涙を流しながら見守っているうち、一言も苦しいと言わず、歯を食いしばり、2時に、遂に今生の分かれを告げた。

 その夜、私は寿雄の死体を抱いて寝た。真夜中頃、天井に寿雄のまぼろしが現れた。無念な顔であつた。寿雄や殺してすまなかった。許してくれよ。また、種々とよくしてくれた。有難たかったと、お礼やら、おことわりを言って手を合わせて拝んでいると、パッと姿が消えたのであった。



11.8 1年3組  故沓木明 父 沓木良之

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員され朝自宅を出たまま行方不明だったが、昭和43年6月5日、広島県動員学徒犠牲者の会発行の学徒誌の巻頭扉写真「救援を乞う学徒の一隊」の中に、背を向けて立って手当を受けている姿が写っているのを発見した。)

 7日早朝自分は明を探し連れ帰らんと、防空用具に身をかため、水筒、カンパン、着替え等を持つてわが家を出た。目もあてられぬ惨状の中を土橋から小網町にたどり着き、市中生の逃げた方向を探しもとめた。市中生は己斐方面へ逃げたとの噂なので、電車鉄橋伝いに己斐国民学校に至り、死屍累々として、目もあてられぬ生地獄の中を、自分は、「市中生はおりませんか、手をあげてください!」と、叫び回ったところ、手があがった。 

 あなたはどなたですか、と尋ねたところ、黒瀬と言ったと思う方に、沓木の事を聞いた所、あえぎ、「沓木君は自分の隣で作業をしていた。ピカツと光った時、スグ僕は伏せた。その時沓木君はまだ立っていた。起きてみたら真っ黒で沓木君の姿は見えず、己斐に向かって逃げた。その中に沓木君はいなかった。」とのこと、施すすべもなく伏し拝んだ。これで明が作業に参加していたことは確認され、多分己斐以外に避難したものと想像がついた。何回となく、敵機襲来する中を、後に心を引かれ乍ら、暗い気持ちで我が家に帰る。 

 8日早朝から江波国民学校、江波陸軍病院、天満、本川の川岸を探し求めたが得る所なし。その後何らかの手掛かりを求めんと、宇治運輸部、似島等を探し求めたが、杳(よう)として不明のままであった。 

 前記の学徒の扉写真を手掛かりに、関係者お会いして、当時の模様を伺ったお話を総合すると次のようである。

 写真は8月6日午前10時40分頃に、千田町御幸交番前で中国新聞社松重義人カメラマンが撮影されたもので、同氏は「ただ夢中で、涙にファインダーを曇らせながらも、シャッターを押し続けた。」と、言っておられた。 また千田町派出所警官藤田徳雄氏は原爆投下の直後、宇品運輸部に行き、食用油を貰ってきて、同僚の藤川警官と共に逃れてきた学徒達のシャツ等をちぎって、これに食用油を含ませて、ピチャピチャと塗っている所だ、とのことであった。

11.9 2年2組 故宮原賢次  母 宮原ミツコ

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。7日、己斐小学校に収容されているのを母親が探しだした。7日午後4時10分、母親に看取られ、お念仏を唱えながら死亡)

 翌朝7日朝早く、トラックに乗せてもらって横川まで連れていっていただきました。そして助けを求め、下敷きの人など横目にみながら歩き回って探しました。十日市、練兵場、そして己斐小学校に行きましたら、教室の中で、

 「お母ちやん、お母ちゃん」

と、叫けんでいる賢次を見つけ、思わずかけ寄り抱きかかえました。そしたら、

 「地下足袋とゲートルを脱がして。」

と申しますのですぐ脱がせました。顔は腫れ、目は余りみえなかったのではないかと思いました。水を欲しがりましたので、井戸から水を汲んで来て少しづつのませました。おむすび、トマトなど持参しておりましたが食べませんでした。手は、手の先の方にぶら下がっていました。 

 そのうち、岩国の病院から救援に来られたお医者さまに治療していただきました。私は平素から、仏様にお参りさせて、ナムアミダブツを唱えさせていましたので、私が唱えますと、一生懸命唱えていましたが、遂に4時30分頃息を引き取りました。



(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。十日、五日市の学校に収容されているのを捜しだして白木町三田の自宅に連れ帰った。8月25日に亡くなるまで苦しみながら話すことができた。)

 母と私は比治山で被爆、矢賀方面に逃げ、中深川の学校で一夜を過ごした。翌日、三田の自宅に帰っても兄の姿はなく、母は8日、9日と市内を歩きまわり、変わり果てた姿にも手をかけて歯が一本出ているのをたよりに捜したと話していました。10日の日は叔父、母、私の3人で先ず、学校跡に行きました。焼け野原に立ちすくんでいましたら、先生でしょうか、五日市の学校名簿の中に兄の名を見つけ、「重体です。」の、言葉に、五日市に急ぎました。黒板の名前は赤丸がしてあり、「遅かった!」と、母は座りこみましたが、教室の中に兄は大きな目をしつかり明けていたので、喜びあいました。その時、同級生の方と一緒でしたが、名前は覚えていません。叔父と母で、己斐から矢賀までの間を兄をおぶって歩き、汽車に乗り、三田に帰ることが出来、25日まで苦しみながらも話すことが出来ました。敗戦の日、「僕は生きたくない!」と、叫んだのを覚えています。



11.11  1年4組 故田部勉 父 田都民三

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。6日、己斐小学校に収容されているのを父親が探し出して祇園町の自宅に連れ帰った。全身火傷で頭部3ケ所に大けが。8月10日午前7時、「水を飲みたい。」とのことで、水を汲みに行ったほんの少しの間に息を引きとつていた。)

 翌7日朝から、学校、舟入町から水主町方面を広範囲に探しましたが消息は判明せず、死んで川に浮いている人、道端に倒れている人々のみじめさが目に焼け付き、こんな哀れな姿は見ぬ方がよいと思い、昼過ぎ家に帰りました。留守の間に家の方へ、勉は己斐の学校におり、「私は祇園の田部です、誰か家へ知らせて下さいと言い続けておられます。」との通知を受け、私の帰るのを待っていたとのことです。

 早速、配給用(30)の小車を引いて、己斐の小学校へ行ってみれば、講堂は勿論のこと、何処も負傷者と死人でいっぱい。足の踏み場もない程で、皆火傷をしているので誰が誰やら判らず、窓から大声で、「田部勉は居ないか!」と、呼んだら、外の杉林の中、しかも、足元で返事をしたので、早速連れて帰ろうとしたところ、軍医さんが、その人は治る筈だから治療してあげると、治療して下さいました。しかし、何分にも頭に大きな傷が3ケ所もあるので大変です。身体も殆ど全身火傷をしていました。治療して貰って車に乗せて帰ろうとする時、軍医さんが私を呼んで、「頭をひどいくやられているから、うわごとを言うが、正気ではないから心配するな」とのことでした。

 家に帰っても、別に変わった事も言わず、「家に帰ったら水を飲もうぞと思った。」と言うから、始めのうちは、本人の望むままに水を与えていました。その後、水を飲ませたら悪いと話をする人が多く、あまり水を与えないようにしました。親友の名を呼んで、

 「誰々や!親友ではないか、その水筒の水をくれっ!」

と、うわごとにまで話しました。水を与えては悪いとのことで、なるべく我慢させ、専ら火傷の薬を吉島町迄買いに行き、火傷につけていました。飛行機の爆音がすると、

 「憎い、撃ち落としてやれ!」と、言ったり、

 「私が死んだら、靖国神社だね。」などと、言っておりました。

 8月10日午後7時、「水、水」と言うから、水を汲みに行った、ほんの少しの間に息を引き取り、末期の水が間に合わず永眠しました。 

 どうせ助からないまなら、水を充分に与えてやればよかったと思います。今も、仏壇には水を供えています。



11.12 1年五組 故山本利和  父 山本熊八

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。二十日市小学校迄歩いて収容された後、平良病院市に移り、父親に看取られながら8月16日息を引き取る。)

 似島に収容され七針縫い、翌日無断で抜け出し、わが子を探し歩く。8月10日二十日市小学校の黒板に私の住所、勤務先・ならびに山本利和市中生徒と記してあることを、息子の友達の親が私に知らせてくれた。その時の嬉しさ、早速二十日市小学校に行き、係員に尋ねたところ、9日に平良病院に収容されたとか、直ぐ行ってみたところ、顔、胸全体に火傷、見るも哀れ、ものも言えない状態であった。毎日の看護の甲斐なく、8月16日午前10時に亡くなった。

 亡くなる2時間前、

 「元気になるよ。お前どうして、ここまで来たのか。」、と尋ねると、

 「全員集合の直後、ピカツと光って、大きな音がしたと同時に、『母ちやん、母ちゃん!』と、叫びながら水槽に飛び込む者・川に飛び込む者、逃げる者。僕は第一避難所の己斐小学校が満員なので、第二避難所二十日市小学校へ線路伝いに友達数人と行く途中、一人倒れ、二人倒れ、二、三人でたどり着いた。」

と話し、疲れたのか、約10分程目を閉じる。また目を開けて、

 「お母さんのけがはどうかね、お父さんとお母さんに心配かけたね、孝行一つ出来ないで」と、話すので、私が、

 「心配するな、よくなったら孝行して貰うよ。」、と言う、

 「僕が世話になった先生、友達によろしく。」、と言い、最後に、

 「お父さん、威厳を保つため、口髭をはやしなさい。」と、言った。その話の後、

 「きれいに治療して、看護婦さんに頼んでくれ。」と、言う。治療が済むと、

 「鏡をみせて。」と、鏡を見ながら、

 「お母さんに宜しく。」

と、ひとこと言って、そのまま息を引き取る。



11.13 2年4組 故松岡左千男 父 松岡 敏夫

(小網町土橋付近の家屋強制疎開作業に動員されて被爆。翌7日、己斐小学校に収容されているのを父親に見付け出された。軍の医療班による手当の甲斐もなく午後10時50分死亡)

  翌7日朝早く、子の安否を心配しつつ、先ず、市立中学校に行く。途中相生橋のあたり、兵士等の被災者の姿は悲惨そのものである。学校の門前に先生が立っておられたので、様子をきくと己斐国民学校附近の先生の宅に避難したとのこと、急ぎ国民学校に向う途中、該当の先生に運よく出逢う、全員己斐国民学校に避難した由にて、各教室を捜す、教室は足も踏み込めない罹災者で一ぱい、皆横に倒れて虫の息のものばかり、現世の地獄図である。先生の協力によってその倒れた人の中から、我が子を見付ける。変った姿に涙も出ない、学校に軍の医療班があったので、戸板に乗せて行き、火傷の手当をうける、せめてもの慰めのひとつである。休ます所もないので廊下の隅に寝かす。 

 しきりに寒がるので自分の上衣などをかける、水が欲しいと云うが火傷には水はいけないと云うので、手拭に水をふくませ口にあててやる。夜になる、灯はつかない、子はしきりに母に逢いたいと云う。夜が明けたら岩国に帰ろうと一時しのぎを云って気をやすめさす。

 然るにその夜11時頃から急に熱が上がり、寝息が荒くなり変な鼾をかくので、ためらう内に急に息が弱くなり、その儘寝るが如く何の苦しみもなく命は絶えた。こんなに、はかない命とは思いもしなかった。時に午后11時50分。

 冷たい廊下の板の上だった。

    水ほしと 言ひつつ死にし 子のことば

               繰返し思ひ 式典を待つ



11.14  1年2組 故伴谷 光司 母 伴谷キミヨ

 当日夕方6時頃近所の方の知らせで、子供が己斐小学校まで帰って宿直室の前で寝ているとの連絡を貰いましたので、すぐさま隣人の方と担架で迎えに行きますと、宿直室の前の靴ふきの上に、あおむけに寝ていましたが、始めは分からなくて何度も行ったり来たりして捜しましたが判りませんので、「伴谷光司」と声を大にして呼びましたら、意識のもうろうとしつつある中から「お母さん僕ここにいるよ。」と、申しました。見るとまったく分らないはずです、顔はまんまるく、唇は豚のロのようにひっくり返って、まるで朝出た時の姿ではありません。腕の皮はボロボロにたれ下がり、背中はまっ赤にむけて、見られた姿ではありません。可愛想にこんなむごい事を。でも其の中から「隣に寝ている玖波の小父さんに連れられて川を泳いで帰ったのよ。」、とポツリと言ってくれました。見れば其の方は義勇隊の奉仕に出られた方のようでした。大きな学校の日の丸の国旗をひろげて寝ておられました。「水を飲まして。」と、言っておられましたが、其の後どうなさったかと思います。 子供は家に連れ帰りましたが、やはり「水を飲ませて、桃が食べたい。」と、云いつつ 7日午前1時15分に息を引きとりました。

 あんなに「水・水」と欲しがったのに、飲ますとすぐ死ぬると人の言葉を信んじて飲ませなかった事が悔まれます。思いがけないこのむごさに、泣いても帰らぬ子供の事が8月6日の来る毎に悲しさが増して釆ます。2度とこの悲劇を繰り返さないようにしてほしいと叫びたい気持でいっばいです。



11.15 1年2組今村昌弘  父 今村 雪好

 当時長男の昌弘は、市中1年生で、土橋方面に家屋強制疎開作業に行くと言って出ました。朝、出た時の服装を頭に尋ねて廻りましたが、沢山の死人が変り果てた姿で、誰が誰やら分かりません。川の石段には重なり合って死体の山でした。我が子を見付けることほ出来ませんでした。 

 小網町方面は火の海にて、近付けず、万一学校の方に帰って居るやもと思い打越の方にも行って見ましたがだめでした。足を引きずる思いで、7時半頃千田町に帰って見ましたが、家は焼けており、其の夜は、妻と子供二人を連れて御幸橋の下にあった船の中で一夜を明し、朝6時頃より又子供捜しです。方々を捜した後、あれでもと思い己斐の国民学校に行きました。10時半頃でした。受付があり、姓名の分った人は記帳して有りました。

 全部調べましたが我が子の名はなく、廊下など死人を見て廻りましたがやはりみあたりません。諦め仕方なく、また他を探そうと思い、受付の人に挨拶に行った時、神のお慈悲でしょうか、兵隊さんが意外な知らせを持ってきて下さいました。小使室に寝て居た学生が、「市中1年今村昌弘です。」

 昨夜より寝たきりだったのに、急に大きな声で言いました。

 「記帳して下さい。」

 私は驚き、

 「それは私の子供です、どこに居ますか。」

 兵隊さんに連れられて小使室に来て見れば、着ている物も破れたシャツと下着、目は腫れ上がり、顔も変わり火傷し、余りの変り果てた姿にこれでは会っても分らないと思いました。耳は聞こえるので色々と話した末、皆の居る千田町方面へ帰ると話し、水を欲しがるのでぬるま湯を少しやり、担架を取りに帰りました。午後2時頃、行った時には死んでおりました。どうせ助からない命だったらのなら、欲しいだけ水も飲せてやれば良かった。あのまま最後まで側に居てやれば良かったにと、やっと捜し当てた我が子の屍の前で涙も出ぬ程に悲しい思いでした。でも会われない人も沢山居られるのにと、悲しいあきらめをしました。仕方なく担架を持って来て下さった隣組(38)の方や己斐の消防団の方にお願いして、上の畑の中で火葬にしてもらいました。今も思い出す度に悲しく戦争は嫌だ、恐ろしいと思います。あれから31年余、頭の中から離れません。戦争は二度としないで下さい。

11.16  1年2組 故井上 功 父 井上 百太郎

昭和20年8月6日、大東亜戦争中、敵アメリカノ最初使用セル原子爆弾ノ儀牲トナリテ、学徒隊トシテ新大橋方面ニ出動シ、疎開取リ片付ケ作業中、上半身火傷、水火ノ中ヲ避退シ、千田町日本赤十字社構内ニ至リ遂ニ、翌7日午前十時死亡セリ。

 8月7日午前、死ノ前、意識明瞭ナル時、皆実町ノ某氏ニ自己ノ住所・隣組番号(38)ヲ告ゲ、連絡ヲタノミテ後冥セル模様ナリ。死ニ臨ミテ沈着、自己ノ居所ヲ明ラカニシ置処、死体不明ナドノ悲シミヲ除キ、死シテ猶親ニ対シ孝ヲツクス。生前孝、死ガ学徒隊トシテ国ニ殉ゼルモノ、軍人ナレバ名誉ノ戦死ナリ。終戦ノ動機トナシ、国家ノ礎石タリ、以テ瞑セヨ。


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