注 記

(1) 中学校、中学生

 当時、現在の中学校とは異なる旧制度による旧制中学校があった。義務教育である小学校を卒業した男子に対する5年制の中等教育機関で、3年制の高等学校、4年制の大学等への進学を目的とする男子のみの特権的な中等教育機関で、当時の男尊女卑の時代を反映している。中学4年から高等学校へ飛び級して進学したり、軍人の幹部養成学校の海軍兵学校や陸軍士官学校へ入学する人もいた。戦後この旧制の中学校は現在の高等学校へ改編されたので、その過渡期にいた私達の仲間は、旧制中学と新制高校と制度こそ変われ、同じ学校に6年間いることになった。

(2)女学校、女学生

 注記(1)に述べた男子に対する中学校に相当するもの。正式名称は高等女学校。当時の婦人の地位の低さを反映して、一般に、外国語、数学、理科などの授業が少なかった。男子の中学校とは異なり、将来家庭に入る良妻賢母の育成を目的にしていたので、教育程度は低かったようである。戦後、男子の中学校と共に、統一されたシステムの新制の高等学校に改編された。

(3)家屋強制疎開作業

 B29による焼夷弾爆撃による家屋の類焼を最小限に留めることを目的として、家屋を間引きして、密集した市街の中に空き地を造ることが行われた。軍と政府機関の指導によって全国的に行われており、広島では市内中央部を東西に貫く幅100メ−トル、長さ3.5キロメ−トルに及ぶ大防火地帯を造るための家屋取り壊し作業が行われていた。現在、広島平和記念資料館の南から東西に伸びている「平和大通り」は、この跡地に造られたもの。 東京の環状7号線などの一部も、このようにして戦争中に強制的に家屋を壊された跡に造られた。

 原爆投下当時は、労働力が極端に不足していたため、隣組(34)や職域、中学生・女学生を動員して行われた。「動員学徒犠牲者の会」、県、市が昭和34年2月に行った調査によると、当日家屋強制疎開作業に従事していた学徒は中学生、女学生の1年生と2年生で総数 9,111人、死亡者数は、5,618人、死亡率は61.6% である。

(4)原子爆弾の炸裂地点

 B29爆撃機投下された原子爆弾は、当時の商工奨励館、現在の原爆ド−ムの上方約580メ−トルの点で炸裂し、小型の太陽とも言える灼熱の火球となり、強烈な熱線、超高圧の爆風、放射線が生じて絶大な被害をもたらした。

 建物疎開作業の現場は、原爆投下中心地から南西わずか約900メ−トルの小網町でしたから、殆ど原爆炸裂場所の直下だったことになります。

(5) モッコ

 土砂などを運搬する用具。わら縄、むしろ、藤蔓などを編目状に編んだものの四隅に吊り紐をつけ、天秤棒をそれに通して二人で担いで運ぶ。

(6)サイパン陥落

 第二次大戦末期1944年6月15日アメリカ軍が上陸し島内に侵攻した。補給のない日本軍は島の北部に追いつめられ7月7日玉砕した。この時民間人の非戦闘員の多くも北岬から海へ飛び降りて自殺した。アメリカ軍は飛行場を整備して日本本土爆撃の基地として利用し、日本本土に甚大な被害を与えた。

(7)硫黄島作戦

 第二次大戦の末期、1945年2月19日、小笠原諸島の南方の硫黄島に、アメリカ軍が上陸作戦を行った。アメリカ軍の目的は、@サイパン基地のB29戦略爆撃機の不時着場を確保し、A日本本土爆撃を援護する戦闘機の基地を獲得し、B日本本土侵攻のための有効な海軍・航空基地を確保し開発することにあった。アメリカ軍は海兵3個師団6万1000人と圧倒的に強力な火力をもって、同島の摺鉢山の山容も変わる程砲撃を行い猛攻した。栗林忠通中将に率いられた日本陸海軍将兵2万1000人は、補給の途絶にもかかわらず健闘し、アメリカ軍に約2万9000の死傷を与えて、3月26日残兵800人で最後の突撃を敢行し玉砕した。

(8)玉砕

 第二次大戦の末期、離島など軍主力から遠く離れた離島などで米軍に取り囲まれた日本軍守備隊は孤立無援のまま、最後の突撃をかけて全滅した。敗戦をぼやかし、これを美化して述べられた語。敵に降伏することは、認められていなかったので、最後には自決するか敵陣に突撃して死ぬことを求められた。民間人の多くも、崖から海に飛び込んで自決した。

昭和18年5月30日 アッッ島 山崎保代大佐以下2,500名 玉砕
昭和19年7月7日  サイパン島           40,000名 玉砕
昭和19年8月    グァム島  玉砕
昭和20年3月    硫黄島 栗林中将以下 23,000名 玉砕
昭和20年6月23日 沖縄 牛島中将以下軍人軍属 85,000名 玉砕
               戦闘協力者、一般住民 94,000名 玉砕



(9)沖縄戦

 第二次大戦の末期1945年3月下旬アメリカ軍は約1,500隻の艦艇と、延べ54万8,000人の兵員で、沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行った後、4月1日には沖縄本島中部嘉手納海岸に上陸した。一方、日本側は陸軍8万6,400人、海軍約1万人、現地徴集の防衛隊員、学徒隊員約2万人の合計12万人で構成されていて、日本国内における唯一の地上戦であり日米最後の戦闘となった。6月23日牛島満司令官の自決をもって日本軍の組織的戦闘は中止した。この間、軍民混在という戦場で正規軍人を上回る非戦闘員である住民に多くの犠牲者を出した。

(10)学徒勤労動員

 日中全面戦争・太平洋戦争期に,中等学校・高等学校・大学の学生や生徒を強制的に工場などに動員し労働させたこと。1938年(昭和13)6月の文部省(集団的勤労作業実施に関する通牒)により,学生・生徒は長期休業中に3−5日勤労奉仕することが義務づけられた。それを恒常化したのが1939年の木炭や食料の増産運動であり,生徒らは正課として作業に参加することになった。1941年には年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出された。 そもそも勤労動員は,たてまえは教育効果をあげるためとなっていたが,実際には戦争の拡大につれて増大した兵力動員により不足となった労働力を補うために考案されたものである。それゆえ太平洋戦争勃発後にはさらに拡大することとなり,1943年6月閣議決定の(学徒戦時動員体制確立要綱)により,学徒勤労が決戦教育体制として位置づけられた。さらに10月の(教育に関する戦時措置方策)で,年間の3分の1を勤労にあててよいこととなった。1944年1月の(緊急学徒勤労動員方策要綱)では,たてまえも(勤労即教育)がうたわれるようになり,通年動員が認められた。この年,中学3年以上の夜業や夜学生の動員も許可された。他府県への勤労動員の派遣も始められた。ついに1945年3月(決戦教育措置要綱)は,国民学校初等科以外の生徒・学生をすべて通年の勤労動員の対象とし,授業そのものをやめてしまった。敗戦時340万人が従事していたとされる。

(11)国民義勇軍法、昭和20年6月23日公布 法律第39号)

 第2条 義務兵役ハ男子にアリテハ年齢15年ニ達スル年ノ、1月1日ヨリ年齢60ニ達スル年ノ12月31日迄ノ者。女子ニアリテハ年齢17年ニ達スル年ノ1月1日ヨリ年齢40ニ達スル年ノ12月31日迄ノ者之ニ服ス。

(12)国民学校

 従来の小学校が戦時体制に対応するため1941年から1947年までの間、国民学校と呼ばれていた。

(13)空襲警報

 敵の飛行機の接近を知らせる第一段階の警報として「警戒警報」が発令される。警報はサイレン及びラジオで知らされた。昭和20年になると日本各地が空襲されたため、敵機が日本のどこかに毎日のように飛来するようになってきて、広島付近を敵機が通過することも珍しくなく、警戒警報は度々発令されいた。原爆投下の前夜も警戒警報、引き続き空襲警報が発令されたが、敵機は遙か上空を通過するだけで実際の空襲はなかった。また、原爆投下当日は、朝方発令された警戒警報が何故か解除されたままの状態で、警戒警報も空襲警報も発令されていない時に、超高度を飛来しエンジンを止めて急降下したB29爆撃機に突如襲われたため被害が大きくなった。「狼が来たぞ!、狼が来たぞ!」と同じで、それに慣れっこになった油断をつかれたのである。アメリカの高度な心理的幻惑作戦の「目くらまし」に、まんまとやられたのだとの説がある。(『広島が滅んだ日、宍戸幸輔』)

(14) 空襲警報(13)参照

(15) B29

 第二次大戦中にアメリカ軍で使われた大型の戦略爆撃機。もともとドイツが南米を占領した場合、米国本土が空襲されることを予想し、その防衛のため、米国本土から南米まで往復できる長距離戦略爆撃機として、第二次大戦勃発の昭和14年に計画されたものだった。米国陸軍の注文で各飛行機製造会社が試作に乗り出したが、結局ボ−イング社だけが試作機の製作に成功した。全幅43メ-トル全長30メ-トル2,000馬力のエンジン4基を備え、最高時速 577Km、搭載定員11名、各種も重火器並びに特別施設を施し、4トンの爆弾を積んだ場合の航続距離はは5,600Km。

 B29は、10,000メ-トルの超高度を飛行できるので、日本の高射砲が届かず、戦闘機もこの高度まで上昇することができなかったので、米軍にとっては、大量の爆弾を安全に投下できる理想的な戦略爆撃機となった。B29による、日本本土爆撃によって、日本の軍事・工業・経済組織が破壊されて、日本の戦争継続能力が壊滅した。

 重さ4トンの原爆を搭載したB29爆撃機エノラゲイは広島から2,740Km先のテニアン島の基地から片道6時間30分かけて、広島に飛来して原爆を投下した。

(16)東方遙拝

 毎朝朝礼の際に、天皇に敬意を表すため、天皇のおられる方角に向かって、体を90度の角度まで深く下げる最敬礼をする習わしで、東方遙拝と言われる厳粛な儀式であった。

(17) 七輪

 木炭を燃料とする家庭用の炊事用こんろ。土、もしくは珪藻土製で熱効率が良く、わずか七厘ほどの値段の木炭で足りるとして江戸時代から使われていた。7厘とも書く。現在のように、お上品にガスコンロやオ−ブンで焼くのとは違い、鰯やサンマなどを煙りを盛大に出しながら焼いたものは、もっとおいしかったような気がします。

(18) 工兵橋

 白島にあった陸軍工兵隊の近くにあった吊り橋で現在も工兵橋と呼ばれている。

(19) 広島文理科大学

 現在の国立広島大学

(20) 海軍兵学校(海兵)

 海軍将校を養成する海軍の学校。中学4年から受験できた。修業年限は3〜4年で卒業と同時に海軍少尉候補生に任命され、練習艦隊において実習・遠洋航海を経て海軍少尉に任官した。

(21)原子爆弾の火炎からの直接熱輻射

 爆発一万分の一秒後、火球直径約28メ-トル、温度約30万度、一秒後直径約280メ-トル、表面温度 太陽表面温度に等しい約5,000度Cとなって約10秒間輝いた。爆発の瞬間強烈な熱線と強烈な放射線が放射されると共に、空気が膨張して超高圧の爆風となって被害を及ぼした。

(22) 蛸壺

 戦闘で砲爆撃から身を守るための一人用に掘った小型縦穴。戦争末期には、ここに潜んで敵戦車の近づくのを待ち、爆薬を投げることにも使われた。

(23) 黒い雨

 原爆爆発後、30分ないし40分ごろから、ねばねばして黒ずんだ油状のものを含んだ黒い雨が、夕立のように広島にも長崎にも降った。ウラニウムやプルトニウムの核分裂生成物、核分裂から放たれた放射性同位元素、爆弾から発生した中性子が照射した核分裂破片等が、火炎が発生して引き起こした上昇気流によって生じた雨に伴われて降り注いだ。

(24)豆粕

 食料のないあの時代に、米の代わりに配給(30)になつた代表選手で、ご飯に炊き込んだり、炒り豆のようにして食べた。お店に来た時は厚さ10p、直径 1メ−トル程の円盤で、これを一見コ−ンフレ−クのように砕いたものが配給になるのだが、なにしろ、大豆から油を絞った滓ですから、言ってみれば近頃園芸店で売っている油粕の親戚、「まずい」の一語に尽きる代物でした。

(25)コ−リャン(高梁)

 中国産の「もろこし」で、直径2〜3粍の赤茶の穀物。お粥にすると結構食べられましたが、馬の餌を食べていたのです。

(26)火鉢

 灰を入れ、中に炭火を入れて、手をかざして暖め、湯茶などを沸かす等に用いた暖房器具。陶器製の他、鉄製、銅貼りの木製等があった。当時は部屋中を暖めることなど思いもよらず、火鉢と、こたつ程度しか暖房はありませんでした。

(27)五右衛門風呂

 鉄製の大きな深鍋のような風呂桶。大泥棒の石川五右衛門が煮殺されて処刑されたとの俗説に因んで「五右衛門風呂」と言う。

 水面に浮いている木製の底板を足で踏み沈めて入浴する。この入り方を知らなかった弥次さんと喜多さんが、下駄を履いて入って大騒ぎになる話が、「東海道膝栗毛」にあります。

(28)ピカドン

 原爆のことを、被爆直後の焼け跡では「ピカドン」と言っていました。「ビカリ」ときて、「ドン」ですから正に、「ピカドン」です。

(29)日ソ中立条約

 1941年4月13日に調印された日本とソビエト間の中立条約で、内容は、@両国間の平和友好関係の維持、A相互の領土不可侵,B締結国の一方が第三国から軍事攻撃を受けたとき他方は中立を守る,であり有効期間は5年であった。調印と同時に日本はモンゴル人民共和国の,ソビエトは満州国の領土保全と不可侵を尊重するとの声明が発表された。この条約は、1940年7月に成立した第2次近衛文麿内閣の松岡外相の構想に基づいたもので,第2次世界大戦が独伊の枢軸側に有利に展開しているうちに日独伊三国同盟を結び,ついでドイツの斡旋によって日独伊ソ四国協商を成立させ,四国協商の圧力でアメリカにアジアから手を引かせて日中戦争を解決し,同時に南進攻策を有利にすすめる考えであった。ソビエト側でもドイツの侵略に対抗するため日本との関係を安定させる必要性が高まり,松岡外相が2回モスクワを訪問し,日ソ中立条約の調印にこぎつけた。その後1941年6月に独ソ戦が,12月に太平洋戦争が勃発したが,日ソ間の中立関係は維持された。ところがソビエトは,1945年2月のヤルタ会談でドイツ降伏後(2月又は3月を経て)対日参戦することを米英両国に約束し,同中立条約の有効期間中であるにもかかわらず(1946年4月24日まで有効)、ソビエトは1945年8月8日対日参戦を行い,満州(注記−39)、樺太を一気に占領した。

(30) 関東軍

 遼東半島の旧ロシアの租借地を日露戦争後租借権を継承した際、山海関の東を意味する関東州と日本が名付けたが、第二次大戦の終末まで旧満州国(39)(中国東北地区)に駐在していた旧日本陸軍部隊の総称が関東軍。関東軍の役割は在満権益の保護と対ソ作戦の第一線部隊であり、関東軍は常に日本の大陸侵略政策の先頭に立ち、満州国建設に主導的役割を果たした。日露戦争で手に入れた関東州と南満州鉄道の権益をまもるため、明治38年に約4万人を駐屯させたたのが始まり。大正8年(1919年)独立した関東軍司令部が新設され、天皇の直隷となり、ロシアを仮想敵国とするようになった。張作霖爆殺事件(1928)、満州事変(1931)を起こして、傀儡(かいらい)国家「満州国」を建設する等、中国侵略の急先鋒となった。対ソ戦準備として1941年に関東軍大演習を行い70万人の兵力を集中したが、第二次大戦末期には敗色の濃くなった南方戦線に精鋭の殆どを移さざるを得なくなっていた。 1945年7月関東軍は在満日本人男子25万人を根こそぎ動員したが、1945年ソ連が日ソ不可侵条約に違反して、日本に参戦するや、殆ど戦わずに壊滅し、捕虜としてシベリアに連行されて強制労働を強いられることになった。

(31) 配給制度

 日中戦争から太平洋戦争にかけて戦争が続き、日常生活必需品、食料等が不足してきたため、これを公平に分配するために採られた制度。配給制度の開始された時期とその統制品目は次の通りです。

1938年 3月 綿糸配給統制開始
1938年 6月 綿製品の製造・販売を規制
1940年 6月 六大都市で砂糖とマッチが切符制となる
1941年 4月 米穀の配給制開始
1942年 1月 味噌、醤油の配給制開始
1942年 2月 大阪で生鮮食料品の総合配給制度開始
1942年12月 名古屋で生鮮食料品の総合配給制度開始
1944年 8月 東京で生鮮食料品の総合配給制度開始

配給切符や米穀通帳がなければ、いくらお金を積んでも買うことができない筈で、国民全体に公平に物資が分配される理屈ではあるが、そこは人間の社会のこととて、統制をすれば、必ず非合法の闇取引があり、国民の全員が何らかの形で闇取引をしていたが、戦争が激化するにつれて、配給物資が極端に不足して、国民全体の飢餓状態が続いた。 配給物資の絶対的不足もさることながら、個々の該当者を調査し、配給量を決めて分配する配給する業務を行なう行政機構を整備することができず、行政の下部機構として町内会や隣組を利用したため、町内会や隣組は、配給業務、防空・防火、国債を強制的に買わせる等の日常生活に大きく介入し、住民のプライバシ−が極端に制限される事態を生じた。

 井伏鱒二の「黒い雨」の中で、当時の隣組と配給の様子について、次のように書かれています。

 「副食品の配給は左記の通りでございます。 隣組班内11戸、32人ぶんですから配分できにくいものが多く、それで順番に2戸または3戸でわけることにしておりました。」

豆腐 :1丁
魚、小鰺、鰯 :いずれかを1尾
白菜 :2株
人参、大根、葱、牛蒡、
      ほうれん草、瓜
:いずれかを5本または6本
茄子 :4個または5個
南瓜 :半分



(32)武蔵

 日清、日露の海戦で圧倒的な勝利を収めた日本海軍が出来るだけ大きな艦砲を備えた巨大な戦艦を目標に建造したのが、戦艦大和と戦艦武蔵。大和は呉工廠、武蔵は三菱重工長崎造船所で建造された。

 武蔵は1942年レイテ沖海戦で沈没、大和は1945年4月水上特攻部隊として沖縄に向けて出撃し九州南方で多数のアメリカ艦載機の攻撃を受けて沈没した。世界最大の口径46pの主砲を備え、最大射程距離は46qで弾丸1発の重量は1.5トン であり、艦船同士の戦闘ならば絶大な戦力を発揮できた筈であるが、航空機の攻撃には脆くも敗退した。(平凡社 百科事典)  

 日清・日露の海戦から得られた巨艦巨砲路線を踏襲して巨額の国費を投じてやっと、それが完成した時には、すでに時代遅れになっていて、航空機、ミサイルの時代になっていたのですから、技術の歴史の悲劇であり、一旦決定した国の方針はその慣性力が大きく、軌道修正をすることができない官僚機構の欠陥を露呈したものであり、吉野川の可動堰や神戸空港建設を中止出来ないで突き進んでいるのも同じだと思います。大型戦艦を造る技術が戦後の石油時代を迎えて、タンカ−を中心とした日本の造船業を発展させ、射程距離の長い大砲の照準を決める必要から発達した光学兵器の製造技術が戦後のカメラ産業の興隆をもたらしたことは興味があります。

(33)インフレ(インフレ−ション、Inflation、 通貨膨張の意)

 戦争が終わるともの凄い勢いで物価が上昇して生活を圧迫しました。

 東京の小売物価指数および警官の初任給の資料を参考に示します。


 

 東京小売物価指数

日本長期統計総監

 
   年  物価指数        備     考
 昭和19年    1.0  
 昭和20年    1.3 昭和20年8月15日 日本降伏
 昭和21年    9.0 昭和21年2月17日 預金封鎖、
     旧円を新円に切り替え
 昭和22年   24.3  
 昭和23年   71.3  
 昭和24年  116.0  
 昭和25年  114.0 昭和25年6月朝鮮戦争勃発
 昭和26年  147.5  
 昭和27年  143.6  
 昭和28年  147.6  
 昭和29年  156.8  
 昭和30年   153.4  

 戦争が終わった昭和20年から翌年の21年の間に、物価が10倍になり、戦後3〜4年で物価が100倍になったのです。 今で言えば、5,000万円の退職金を貰って、「やれやれ」と思った途端に、50万円に価値が下がってしまって、2ヶ月ほどの生活費にしかならなくなったようなものです。

 貯金や退職金、戦時中、国に買わされた国債などが一気に目減りしたのです。現金収入のある人のとっては、給料や商売で得られる収入が、インフレの進行に応じた、それなりの上昇するので、まだしもですが、定年退職した父と未だ育っていない子供達を抱えた現金収入のない我家の経済が如何に大変だったかが解ります。

 インフレ政策は一種の合法的な借金棒引きです。誰か、これで儲けた人がいるのではないかと不思議です。

(33)インフレ続き

 表が入る
   警官の初任給
年代
   年   月
初任給
  月額(円)
給与指数
昭和19年を1とする。
昭和10年       45      1.00
昭和19年       45      1.00
昭和20年       60      1.33
昭和21年      420      9.33
昭和22年    
昭和23年  月    1,800     40.00
昭和23年  月    2,340     52.00
昭和24年    3,772     83.82
昭和25年    3,991     88.69
昭和26年 1月    5,050    112.22
昭和26年10月    5,900    131.11
昭和27年    6,900    153.33
昭和28年    
昭和29年    7,800    173.33
昭和30年    
昭和32年    8,100    180.00
昭和34年 4月    8,500    188.89
昭和34年10月    8,930    198.44
昭和35年 4月    9,200    204.44
昭和36年   13,100    291.11
昭和38年   16,000    355.56
昭和40年   20,500    455.56
昭和44年   26,270    583.78
昭和48年   56,000   1244.44
昭和54年   99,100   2202.22
昭和60年  122,200   2715.56
東京小売物価指数
小売物価指数
昭和19年を1とする。
     1.0
 
     1.3
     9.0
    24.3
    71.3
 
   116.0
 
   147.5
 
   143.6
   147.6
   156.8
   153.4
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


(34) 預金封鎖

 1946年2月17目,総合的インフレ対策の一環として金融緊急措置令が公布施行された。同令と同時に日銀券預入令,臨時財産調査令,食料緊急措置令,物価統制令などが公布施行されている。2月17日現在で預金等の金融機関の債務を凍結し,3月3日を期して旧円と新円とを切り換え,1人100円に限って新円との交換を認め,それ以上の旧円(5円券以上)はすべて金融機関に預け入れさせ,既存の旧円預金ともどもこれを封鎖した。。ただし一定の生活資金と事業資金のみについては,封鎖小切手または新円での引出しが認められた。新円の印刷が間に合わず、切手のようなものを旧円のお札に貼り付けて使ったことを思い出します。

 一方,俸給や賃金等はすべて月額500円までは現金払いとするが,それ以上は封鎖支払いとされた。なお俸給や賃金に依存しないものについては,上記の生活資金として月額世帯主300円(のち100円)世帯員1人100円の現金引き出しが認められた。この措置によって通貨は一挙に75%も収縮し(2月16日の目銀券615億円から3月12日の152億円へ),金融機関は預金引出しの制限と預入れ増加により危機を脱し,インフレーションも一時小康を得た。しかし,封鎖預金はぬけ穴を通じて引き出されたほか,封鎖預金自体も預金通貨として購買力化されたうえ,赤字財政も継続したため,結局,この政策は短期間で失敗し,ふたたびインフレーションは更新していった。

 父が長年勤めて受け取った退職金も、戦後のもの凄いインフレと一家全員が居食いで瞬く間に無くなっていくし、現金収入が無く、預金を引き出して生活していた我々は、この預金封鎖の影響をもろに受けてお金がなくて大変でした。

(35)鰯拾い

 私達が戦後に暮らした高浜村は、長崎市から東に伸びた野母半島の途中にあり、5キロ程先の半島先端に野母漁港があります。野母漁港には鰯が沢山水揚げされるのですが、それの正に、「おこぼれ」を頂戴に行くのが「鰯拾い」です。何しろ当時は、食料がない、お金が無い時代で食料調達が一大重大課題でしたから、「鰯拾い」は、当時の我が家の重要な行事の一つでした。鰯がその頃の唯一の蛋白源であり、芋と共に我が家の餓えを救ってくれたのです。 鰯は夜、漁船が出るのですが、月夜の晩には獲れず、月一度の新月の闇夜の数日しか獲れません。新月の早朝、まだ暗い内に家を出て、5キロの道を歩いて野母の漁港に着くころには、漁船が大漁旗を翻して続々港に入港し、直ちに水揚げし、鰯の水揚げが終わると、次いで、竹で組んだ大きな桟敷に魚網を広げて乾かします。

 その時、水揚げの時に網から外しきれなかった鰯が若干付いて来るので、それを桟敷の下に放り出します。それから先は所有権の無くなった鰯を桟敷の下で待ち構えて争って頂戴すると言う寸法です。こうして拾い集めた鰯を天秤棒がしなる程篭に入れて、意気揚々と帰り直ぐ食べるのが、刺身、塩焼き、次いで後一月分の食料保存用に、開き、丸干し、煮干し、塩辛等を造ります。獲れたばかりの刺身はとてもおいしいものでした。このような思い出があるので、鰯に対しては格別の思い入れがあり、後年神戸に行ってからも、良い鰯が手に入ると、手で骨と頭をつるりと取って刺身にして楽しみました。

 刺身を現地では「ぶえん」と言っていましたが、平家物語の中で、刺身のことを「ぶえん」と言っているのを見付けました。「ぶえん」は「無塩」でしょうが、「ぶえんの女」などの面白い用法もあるようで、この時代の古い言葉が、方言としてこんな長崎の片隅に残っているのは興味深いことです。

(36)予科練

 戦争の激化に伴って大量に必要になった飛行機の搭乗員を養成するために設けられた制度による志願兵の一つで、海軍飛行予科練習生の略称。中学校4年終了者を一年半の過程で養成し下士官となるもので、採用数は戦局とともに激増し,約14万8000人達した。1944年秋に神風特別攻撃隊による特攻戦法が開始されてから,予科練出身者の多くはこの体当り攻撃の消耗品として当てられ,犠牲者を激増させた。 皇国の存亡は諸君の双肩に掛っている、とおだてられ、新聞や軍歌や映画などで英雄的にとりあげられていましたから、海軍兵学校、陸軍士官学校、幼年学校などとともに、七つボタンの制服の予科練は当時の少年にとって、あこがれの的の一つでした。

 本来は志願制の筈の予科練が,戦争末期には全国の中学校へ少年兵志願者が割り当てられることもあったとの話もあり、慄然とします。

(37)学徒出陣

 今の自衛隊と違って当時は国民皆兵制度でしたから、20歳に達した全ての男性は身体検査(徴兵検査)を受けさせられた上で、合格者は兵役を勤める義務がありましたが(徴兵制度)、大学、高等専門学校生徒に関しては卒業まで徴兵が猶予される制度がありました。

 太平洋戦争開始とともに兵員の不足は深刻化し,しだいに兵力の根こそぎ動員の様相を呈するに伴って、従来,大学,高専の学生生徒に認められていた徴兵猶予の特典が撤廃されて,理工科系及び教員養成学校生徒を除く全ての学生が教育学業半ばにして学徒が徴兵されて出陣することになったもの。第1回学徒兵入隊を前にして,東京では1943年10月21日,文部省学校報国団本部主催による出陣学徒壮行会が明治神宮外苑競技場で、当日の雨の中で開かれ,東条英機首相,岡部長景文相出席のもと、関東地方入隊学生を中心に7万人が集まった。このほか各地で壮行会が開かれたが,翌年の第2次(出陣)以降は壮行会さえ行われなかった。 1944年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に引き下げられ,学徒兵の総数は13万人に及んだと推定される、こうして徴兵された学徒兵のなかには,青春を戦火に散らし,二度と還らなかった者も多かった。 

(38) 隣組

江戸時代から五人組,十人組などの制度があり、幕府行政の末端を担う組織がありましたが,日中戦争の拡大にともない,政府は国民動員のための組織化を目的として行政の下部組織である隣保組織を整備したもの。

規模は10戸内外とされ,防空,防火,防諜,防犯,国民貯蓄,物資配給を円滑に行うことが目ざされた。そのため隣組常会には,隣組員全員の出席が求められ,また情報や指示を伝える隣組の回覧板が常時回された。.ここに,政府――都道府県知事――市町村長――部落会・町内会――隣組という縦の上意下達機構が整備され,政府の宣伝,伝達を末端において受けとめる組織が完成したといえよう。 隣組の相互監視体制,連帯責任制度は,それが生活物資の配給,労働力の供給の基本単位であつただけに,高度の強制力を持った国民統合組織として機能した。そこで隣組は,肥大化した行政の下請機関として,膨大な業務をかかえざるをえなかった。また戦局がおしつまるなかで,生活物資の極度の欠乏状態が生じたが,それに対応した広範な節食,節約,貯蓄,供出などの役割は,すべて連帯責任をともなった隣組にのしかかってきた。戦争末期には,防空のための基礎単位として,日常的にバケツリレーや竹槍訓練が行われたのである。隣組は敗戦後の1947年5月ポツダム政令の公布によって廃止された。     

このような形での隣組は廃止されたものの、依然として町内会、自治会なる名称でその思想は今日まで生き残っていて、名前こそ変われ、未だに、都や市等の地方自治体の下請け的な仕事をやらされていて、行政からのお知らせや赤い羽の募金などがそれらを介して行われています。考えてみると戦時中のみならず、江戸時代の五人組、十人組の制度の名残をいまだに引きずっていると言えるし、もっと遡れば、弥生時代以来、水田用の水供給と分配に不可欠だった部落の人々との協力と調和を第一優先とする日本人のグル−プ指向を連綿として引きずって今に至っているのかも知れません。

(39)傀儡(かいらい)国家満州国

傀儡(かいらい)とは、操り人形のことで、満州国などと言っても実体の無い日本の操り人形に過ぎないことを意味する。 満州事変を起こして日本軍が占領した満州(中国東北部)と内蒙古・熱河省を領域に元の清朝廃帝愛新覚羅薄儀(ふぎ)を擁立して皇帝に据えて樹立した国家であるが、日本が日本の原料供給・商品輸出市場および対ソ戦の戦略基地として利用するために日本が作ったものであり、国家の形をとってはいるものの、総ての実権を日本が握っていて、日本の操り人形(傀儡)にしか過ぎない。1932年3月1日満州国の独立が宣言され、日本政府は満州国を承認したが、国際連盟から派遣されてリットン調査団が実態調査を行なった結果に基づいて作成した報告書が、満州国を認めないとの結論だつたことに反対して国際連盟から脱退し、孤立化の路を進み、遂に太平洋戦争に突き進むことになった。

建国以来満州国支配を支えてきた関東軍の兵力もあいつぐ南方作戦への転用で弱体化した。満州の抗日運動と民族抵抗は関東軍の弾圧にもかかわらず、ついに絶えることはなかった。1945年8月ソ連の参戦と満州進攻は関東軍を一挙に瓦解させ,満州国は日本帝国主義の敗北とともに解体した。 


目次へ  

本体験記についてのご意見等はこちらへ。kitagawa@mqb.biglobe.ne.jp