宗教は知的な活動でない。病気や災難にあったときの気休めか、人をだます迷信であると考える。昔、人々は自然と共生し、自然に包容されて生きていた。日本人にとって、最近まで世界と自然は区別されなかった。自然の背後に知性(霊)が宿っていると考えるだけで十分だった。
大多数の日本人は、お葬式や結婚式のときにお世話になるのが宗教だと思っている。だが、世界的に見ると欧米でも、イスラム諸国でも、インドでも東南アジアでも、世界中ほとんどの国々で、宗教は日常生活にすっかり融けこんでいる。
知性は生きている個々の個体の活動であって、個体は必ず死んでしまう。知性のある生物は、生きるために衣食住など生活していくための知識、その属している群れの掟や親族関係、やっていいこと悪いこと、他の群れの情報や、群れに伝わるいろいろな言い伝えなどを知っているだろう。生きていくためにはこうした情報が必要だから。ところが同時に、自分はやがて死んでしまうことも知っている。人間は皆、無力な赤ん坊として生まれ、成長して、いったん自立しているように見える時期を過ごしたあと、年老いてからは他人の世話になりながら死んでいく。人間には知性があるから、社会は弱肉強食だけの自然状態ではなく、互いをいたわり合い助け合うことで生きていけるということを理解できる。
人々が共同で支えている社会の内部の価値や意味は、ある人が生まれる前から存在していたはずだ。どうしてか?たとえば、ある時この世界が、ある偉大な知性の手で設計され、製造されたと考えたとする。であれば、世界が価値にあふれ、意味に満たされていて当然である。そして、世界は製造されたのだから、始まりがあり、終わりがある。それを製造した知性は、世界の外側にあるのだから、始まりも終わりもない。この偉大な知性を神(God)と呼ぶことにすると、これは一神教である。知りたいことがあったら、神が何を考えているかを知ればよい。それを知るには、預言者(神の声を聞いた人)の話を聞けばよい。予言者の話は『聖典』(バイブルやコーラン)で知ることが出来る。
また、この世界が、永劫の昔から究極の法則に従って運動していると考えると、この世界には始まりも終わりもない。世界も人間も、変化していくように見えるが、実は変化していない。究極の法則は変化しないからだ。価値も意味も、人間の生命も変化していくように見えるが、実は変化しているのは現象にすぎないのだ、と理解したとする。すると、究極の法則を理解することが、人間の知性の最高のあり方である。この究極の法則をダルマ(法)と理解し、最高の知性をブッダ(仏)と理解すると、これは仏教である。知性を最高のあり方に導きさえすれば、誰でもが仏(ブッダ)になれる。究極の法(ダルマ)は、ブッダの言葉をまとめた経典に書いてある。
あるいは、この世界は、過去を単に再生産しているのだと考えると、過去を忠実にたどることが、人間にとっての最高のあり方だと考えることが出来る。過去の世界の価値や意味は、過去の理想的な知性によって運用されていたから、知性は、過去がどのようであったかを、よりよく理解しなければならない。過去の理想的であった知性を聖人であるとすれば、これは儒教である。聖人がどのように、この世界の価値や意味を運用していたかは、四書五経に書いてあるから、これを読んで自分も聖人と同じように行動する。それが望ましい知性のあり方である。
人間は自分の存在理由を確かめるために、そして、価値にあふれ、意味に満たされているこの世界が、そのようであって良いのだという確信を持つことができるように、知性が限界を超え、考えられないことを考えようとしてきた。宗教はこのような試みであり、そして、文明の原動力であった。